ユリアと獣(5)
ヴィンセントは小さく溜息をついた。
「……まったく。無茶をする」
しかし、声は先ほどよりも力強い。
オレはユリアへ目を向けると、彼の動きに全神経を傾けた。
今さっき傷つけた俺の腕はもう治癒している。
しかし、ユリアの方はまだ完治していないようだ。
「……まずは、1本」
俺は自身の左人差し指を握り締めた。
空気を切り裂くようにして、黒いシルエットがヴィンセントに飛びかかる。
先程とは打って変わり、ヴィンセントは踏み込んだ。
衝突。それから爆音。
ユリアの腕が、ヴィンセントの頭部目がけて振り下ろされる――
オレは、なんとか目を見開いてタイミングを図り、
握っていた指を、関節とは逆に折り曲げた。
鈍い音が立ち、痛みに後毛がブワッと総毛立つ。
「……っ、あああ!」
目に涙が滲んだ。
呼吸が引き攣る。
ユリアはと言えば、一瞬ビクリと体を跳ねさせ腕を引いた。
ヴィンセントがそのまま、大剣を振り抜けば黒い巨躯が地面に転がる。
両手をついて唸り声を上げ、ユリアはすぐさま体勢を整えた。
衝撃はあったようだが、動きを止めるほどの痛みではなかったようだ。
俺は服の裾を破り口の中に詰め込むと、
続けざまに、逆の手の真ん中の3本の指を握り締めた。
「バンっ、待っ……!」
セシルが隣で息を飲むのも関わらず、俺は意思を行使する。
ゴキンッ
……ガクガクと膝が笑った。
俺は体を丸めて、目だけでユリアを見た。
折ると分かっていても、これだけの衝撃があるのに、
なんの脈絡もなく指が折れたらたまったものじゃない。
しかも、今のユリアは獣じみた本能に支配されているのだ。
危機管理に重要な意味を持つ痛覚は、鋭敏に彼の体を支配しているはず……
そんな推測は、幸いなことに当たったようで、先ほどよりも明かな反応が見えた。
獣が腕を掴み声にならない咆哮を上げた。
その隙を逃さず、ヴィンセントは容赦なく突っ込んだ。
大剣がユリアの右腕を激しく打ち据えると、彼の体が大きくグラリと傾ぐ。
だが、それも一瞬のこと。
ユリアはヴィンセントから距離を取るように飛び退り、2撃目を躱した。
「……動き、止めねぇと」
まだだ。
まだやれる。
ユリアがじりじりと再び間合いを詰める。
次に2人がぶつかる前に、動きを封じなければ。
……ユリア、ごめんな。痛いよな。
でも、今止めねぇと……もっと痛ぇから。
心の中で謝ってから、オレは思いきり近場の瓦礫を蹴り上げた。
一度では思った成果を得ることは出来ず、
何度も繰り返した。
反動をつけて、何度も、足を振り抜く。
皮膚が裂けて、血が散った。
それでも折れない。
クソ。もっと……もっと力を込めないと。
「ね、ねえ……もう……もう、止めろって……っ!」
後ろから、セシルに羽交い締めにされる。
「止めたら、ヴィンセントが死ぬ。お前、それでもいいのか」
オレは歯の間から声を絞り出した。
「そ、それは……でも……お前……」
「……痛いだけだ。なんとかなる」
セシルを通して、オレは自分自身に言い聞かせた。
気が狂いそうだった。
治癒したとしても、痛みは感じる。
幻覚のように、痛みが体に絡み付く。
「ッ!!?」
目の前に火花が散り、鈍い音が響いた。
足から先の感覚が鋭く熱くなり、
ようやく目的を達成出来たようだった。
オレは痛みに抗えず地面に倒れると、
額を擦り付け体を揺すった。
「……っ、ぅ……う……」
ケガは治っても、痛みへの恐怖心は拭えない。
次第に、自傷の勢いは減速していった。心が怯んでいた。
ユリアは片足を引きずりながらも、
目前の相手を殺すことを諦めてはいなかった。
彼が間合いを詰めようとする先を制し、
ヴィンセントが大きく踏み込む。
それに驚いたのかユリアは腕を振るうが、
ヴィンセントの勢いを殺すには至らない。
彼はその腕の下に潜り込むかのように態勢を低くすると、
大剣の切っ先で鳩尾を打ち抜いた。
耳をつんざく咆哮が木々を揺らす。
ヴィンセントはここが分水嶺だと感じたのか、
更に攻撃を加えた。
しかし、ユリアもただでやられるつもりはないらしく、
必死にその攻撃を潰し続ける。
黒いシルエットの中で、赤い瞳が怒りに燃えていた。
確実に彼は弱っていた。
その証拠に、彼の体からは黒い蒸気が立ち上り、
ところどころ闇の剥げた部分に、
血に染まった白い毛が見え隠れしている。
もう少しだ。
オレは上半身だけ起こすと、手近な瓦礫を手に取った。
両足を潰してしまえば、もうユリアは動けない。
しかし、瓦礫は手から滑り落ちてしまった。
「……もう少しなんだ」
体が限界だった。
力が入らない。全力で痛みを拒否している。
オレは舌打ちすると、セシルを振り返った。
「セシル。やってくれ」
「……や、やるって何を」
「俺の左足、叩き折れって言ってんだよ」
血の気が引いて青かったセシルの顔が、
紙よりも白くなった。
彼は口の端をヒクつかせてから、
壊れたカラクリ人形みたいに首を振った。
「む……ムリ。ムリムリムリ。
折るなんて、そんなこと……」
「言ってる、場合かよ……」
ヴィンセントも限界を超えている。
そんなことはセシルにも分かっているはずだ。
大剣は振るう度に重さを欠いていく。
それでも致命傷を避け続けているのは、
彼が蓄積してきた戦いに対する勘でしかないように思う。
「急げ……」
セシルの華奢な喉仏が上下した。
彼はカタカタと歯を鳴らしながら、
地面に転がっていた燭台を手に取った。
「いいか、よく見ろ。この、足の……付け根に近いとこヤれ。
この辺りは、治りが悪いから」
もう既にオレの右足の傷は塞がっていた。
ユリアの方が治癒するのも時間の問題だ。
そうなってしまったら、確実にヴィンセントはトドメを刺される。
ギィンッと鈍い音が耳に届いた。
金属が軋む音に、ヴィンセントの呻き声が重なる。
セシルが燭台を構えた。
先端が震えて、定まらない。
「や、やるよ……」
「ああ」
「やるからね……」
「ああ」
「本当にやるから……!」
「頼む、セシル」
「……! うあああああああああ!」
悲鳴に近い声を上げて、セシルが勢いよく燭台を振り上げた。
ビュンッと宙を重い音が切り裂き――――
その刹那、ヴィンセントの大剣が真っ二つに折れる音がした。