人狼坊ちゃんの世話係

シロとユリア(1)

 ――僕の心の中には、ケダモノが棲んでいる。

 夢の中では、バンさんがベッドで眠っていた。
 その短い黒髪を撫でているのは、
 僕の手ではない。

『見るな』

 低い唸り声が言う。

『これは俺の記憶だ』

 僕は頭を振った。

「……お前だって、僕のを散々見ているだろ」

 規則正しい寝息が聞こえる。

 はだけたシャツの間から、鎖骨が覗き、
 その少し上の肩口には、赤く皮膚が引き攣ったような痕があった。
 ――噛み跡だ。

「気付かなかったな……」

 その痕は空が白む頃になると、目を凝らして見ないと分からなくなるほど薄くなった。

 鋭い爪先は、赤味が消えた後もそこを愛おしげになぞり続ける。
 流れ込んでくる感情に、僕は何も言えなくなった。

 バンさんの穏やかな寝顔が、全てを物語っている気がした。

「バンさん。あなたは――」

* * *

 鮮血が噴き上がると同時に、
 ゴツリと骨の砕ける音がした。

「ぐっ、ぁああああ……ッ!」

 夜のしじまに、バンさんの悲鳴が響き渡る。

「や、止めてください!!」

 僕は神官達に取り囲まれ、
 無言で、容赦なく、取り押さえられた。

 声を張り上げ暴れても、ビクともしない。
 胸の中で怒りと恐怖がグツグツと煮立つ。

「やめ――」

 視界の先で、ジルベールがバンさんの胸に刀剣を突き立てた。
 バンさんは咄嗟に、刀身を手で握りしめて留めようとした。

「い、嫌だ、バンさん……っ」

 しかし、切っ先はみるみるうちに彼の体を貫いていく。

「お、お願いします。何でもします。しますから、止めてください……
 お願いします。お願いだからっ……!」

 ゴホッとバンさんが咳き込んだ。
 口の端に、赤い泡が見えた。

「あは、はは、いいよ……いいよォ……
 その必死な顔……ヤバ、ちょっと勃ったかも……」

 ジルベールの上擦った笑い声が、耳に届く。

 駆け寄りたいのに。
 助けたいのに。

 僕では、彼を助けることは出来ない。
 ゆっくりと命を狩られる様を見ているしか出来ない。

 僕は無力だった。
 また、僕は目の前で大切な人を失う。

「……嫌だ」

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ。絶対に。
 もう、2度と失いたくない。

 噛み締めた唇に血が滲んだ。
 僕はキツく目を閉じた。

「……目を覚ましてよ。聞こえてるんでしょ」

 やり方なんて知らない。
 けれど、アイツは僕の声をいつだって聞いていた。
 そうして、僕の知らない場所でバンさんと関わっていた。

「助けてよ。
 バンさんのこと、愛してるなら……
 今すぐ彼を助けてよ……!」

 足先から、炎に巻かれるような感覚。
 続いて、僕は無意識に親指で自身の唇の血を拭っていた。

 グンッと見えない力に押しやられるようにして、意識が身体から離れる。
 代わりに髪の先までエネルギーで満ちていくのを感じた。

 次の瞬間、僕は地面を蹴っていた。
 僕の身体は、僕の意思を置き去りにして風のように軽やかに、
 針のように鋭く、ジルベール目がけて駆けた。

「――ッ!」

 バンさんに覆い被さっていた影を蹴り飛ばす。
 それから、僕は……バンさんの身体を抱き起こした。

「……バン。俺の許可なく死ぬことは許さない」

「お、前……なん、で……」

 バンさんが目を見開く。

 地面に転がったジルベールが、仰向けに寝転がったまま肩を震わせて笑った。

「あは……あはは……今のは効いたよ、人狼青年。
 壊れちゃったかと思ってヒヤヒヤした」

 そう言って、彼はふら、ふらと体を起こす。
 首を回して口の端を引き伸ばす。

「ってーかさ、突然暴力を振るうなんて、
 お前、育ちが悪いだろ?
 まあ、いいや。これから長い付き合いになるわけだし、
 俺が教育し直してやる。泣いて感謝してよ?
 ――聞いてんのかよ、このクソガキが!!」

 僕はバンさんを地面に横たえてから、
 ジルベールに対峙した。

 怒りで視界が歪んで、耳鳴りがする。

「喚くな……すぐ楽にしてやる」

 ジルベールが動く前に、僕は一気に間合いを詰めた。
 振り下ろした鉤爪が彼を僧服ごと引き裂く。

 獰猛な感情が全身を蔦のように這い、
 やがて、赤々と殺意が咲いた。

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