白夜の夜明け(4)
* * *
俺は苛立たしげに脳裏を過った記憶を振り払った。
あの日のことを思い出すと胸がざわつくが、俺は……その理由にとっくに気付いている。
「貴様が世話係かどうかの話はしていない。
少しは自分のことを顧みろと言っている」
俺は、バンの頬に付着した泥を手のひらで拭いながら告げた。
「そんなことでは、いずれ摩耗して死ぬぞ」
俺はそのまま血の気の失せた顔を撫でる。
バンは困ったように肩を竦めた。
「……っつって、オレはオレのしたいこと、してるだけなんだけどな」
「貴様は頼ることを知らな過ぎだ」
「そうか? オレ、結構、頼ってるぞ……?
メティスから出る時とか、お前に頼んだし……」
「俺は『信頼』の話をしている。
信用されているのは分かっている」
バンは眉根を寄せた。
俺の言葉を口の中で反芻してから、目を細める。
「よく分かんねーけど……
ひとまず、オレは何も考えずに休んでいいってことか」
「……フン。それでいい。
理解力はそれなりにあるようで安心した」
瞼を閉じろと言う代わりに、俺はバンの目元を手で覆う。
彼はそれに従って目を瞑った。
僅かな間の後、俺は手を外すと、静かにバンを見下ろす。
意外なほど長い睫毛が、目元に影を落としている。
小さめの唇は青白く、薄い。
弱々しく上下する胸は薄いながらも、ほどよく引き締まり、
泥で汚れた爪は丸く、節張った指は長くて細い。
俺は天を仰いだ。
……込み上げる気持ちを押し殺す。
このまま、彼を連れ去ってしまえたらいいのに。
* * *
『なんで? なんで、バンさんは分かってくれないの……?』
『お前だって、オレのこと分かってくれねぇじゃん……』
山小屋に辿いた、月のない夜。
ユリアはバンを責めた。
目頭を指で押さえて、バンが深く息を吐き出す。
俺は彼の頬を叩いた右手が、じんじんと痺れているのを感じた。
『……外に連れ出して、悪かったよ。
オレの認識が甘かったんだ』
コイツがどれほど大変な目に遭ったのか、ユリアは知らない。
知らないから、脳天気なことを言えるのだ。
そうして自分にとって不都合になれば、
事実を折り曲げようとする。
『でもさ、小さい頃に両親を目の前で殺されるなんてのは……やっぱつらいし。
忘れちまったのも、心を守るためだ。仕方ねぇ』
その『仕方ない』せいで、お前は何度も傷ついた。
ヤツの苦しみを少しでも和らげようと、
何度も何度もお前は真実を理解させようとして、
ユリアに責められて、泣かれている。
俺は――ユリアは、穴の空いたズタブクロだと思う。
バンがどれほど愛しても、
どれほど大切に慈しんでも、
ユリアは都合の良い部分しか見ない。
屋敷にいた頃と何も変わっていないのだ。
ヤツは閉ざされた世界から出ようとしない。
バンが手を引いても。何をしても。
ユリアは分からない。分かろうとしない。
……だが、俺は違う。
『……お前、どうしちまったんだよ』
俺だってらしくないのは分かっていた。
それでも、もうこの感情を抑えきれなかった。
「俺は貴様を愛している。
だから、ユリアに渡したくない」
俺の言葉に、バンは心底意味が分からないという顔をした。
そんな彼に、俺は内心、笑ってしまった。
どうしてこんなに簡単なことも分からない?
貴様はユリアに言っただろう。
愛している者が傷つくのを見たくはないと。
――俺だって同じだ。
しょぼくれて、苦しんで、それでも前を向こうとするお前を、見ていられない。
「貴様を抱きたい。……抱かせろ」
お前から、ユリアが離れないのだから、
俺がお前をアイツから引き離すだけだ。
「……さっさと済ませろ」
「そう焦るな。せっかくだ、貴様も楽しめ」
「誰がっ……」
俺は無理やりバンを抱いた。
歯を食いしばって声を押し殺す彼に、俺は溺れた。
* * *
どれほど願おうと、
誰も、変わることを止められはしない。
「何十回と同じ事を繰り返しているんだ、
気付いていないとは言わせないぞ」
バンを組み敷き、俺は繰り返す。
揺れる瞳を見下ろして。
「貴様が、何度思い出させてもアレは変わらない」
俺は……祈るように嘘をつく。
番外編『白夜の夜明け』 おしまい。