人狼坊ちゃんの世話係

螺旋回廊(1)

「お前の両親のこと、話そうか」

 バンさんは何処か決意めいた眼差しで僕を見ると、そう言った。

「僕の、両親……?」

 不意を突かれて、僕は目を瞬く。

「どうしたんです、突然。
 なんで僕の両親の話なんて……」

 しかも、それがどうして痛いことになるんだろう。
 不思議に思って問えば、彼はそっと僕の手を握りしめた。

「……お前に必要だと思うから」

「必要?
 でも、僕は……前も言ったけど、何も覚えていないんですよ」

「本当に、思い出せないか? ひとつも?」

「はい……」

 記憶を辿ろうと試みても、
 屋敷にひとりで住み始めた頃より前のことになると何一つ思い出せない。

 深い霧に包まれているような、
 そこには底無し沼のような虚無が横たわっている。

「そうか……」

 バンさんは一言うなずくと、僕をベッドに押し倒した。
 それから僕の手を自身の頭に導く。

「……オレのこの黒髪は、母親譲りだ」

「バンさんの、お母さん?」

「そ。小さくて細い人だった。
 気が強くてケンカっ早くて……でも、隠れてよく泣いてた……」

 彼は少し寂しげに笑って話を切り上げると、
 今度は僕の髪に触れた。

「お前のこの飴色の髪は?  どっち譲り?」

「それは……」

 分かりません。

 そう口を開こうとした瞬間、
 脳裏に、飴色の、髪の長い女性の後姿が過ぎった。

 腰まで長い髪は、僕と同じ色。
 ウェーブがかかった髪を、緩く編んでいる。

「……たぶん、母さまだと、思います」

 気が付けば、僕はそう答えていた。

 後姿では顔は見えないし、顔が見えてもそれが母だと証明できる訳じゃない。

 でも、やはり、彼女は母だった。
 心がそう断言している。

 じっと意識を集中させれば、その人はゆっくりと振り返った。

 口元が見えた。
 桃色の唇は薄く、少し大きい。
 僕は、彼女がよく笑う人なのだと……知っていた。

「そうか。  ……じゃあ、お前の目の色は? どっちの色?」

 僕の顔を覗き込んで、バンさんはゆっくりと質問を続けた。

 彼の眼差しに吸い込まれるようにして見つめ返せば、
 耳の奥に心地良い低音が響いた。

『……アリア、見てみろ。
 こんなに小さな手なのに、爪がちゃんとある』

『本当……睫毛もしっかり生えてるのよ。
 凄いわよね』

 ふいに聞こえた声に、僕の意識は全て奪われた。

『ふふ。目元はヨシュアにそっくりだわ。
 瞳の色も、形も……そのまんま』

 僕はベッドに寝転がっていた。
 見覚えのない天井は、遥かに高くて遠い。

 僕を挟むように、二人の男女が横になっている。
 彼らはウトウトする僕の手を――驚くほど小さな手を、握りしめている。

『晴れた日の海の色よ。
 ずっと見つめていたくなる、あなたの色だわ』

 そんな囁きと共に、たくさんのキスが降った。

『早く大きくなってね、ユリア。
 そうしたら、母さんと父さんと一緒にたくさん遊びましょう……』

 透き通るような、子守唄が聞こえた。

 冷たい手が、僕の胸で優しくリズムを刻む。
 頭を優しく撫でる手は、大きくて、温かい。

「ユリア?」

 ふと我に返れば、バンさんが心配そうに僕を見下ろしていた。
 知らないうちに頬が濡れている。

「バンさん……僕の瞳は、たぶん……父譲りです」

 僕は目を閉じた。
 瞼の裏に、繰り返し遠い天井が浮かび、
 夢と現の狭間で聞いた歌声が頭の中に響いている。

 それは……霞の向こうの記憶だ。

「どうしたんだろう。涙が……
 なんで僕は泣いてるんでしょうか……」

 僕は腕で目元を覆った。

 忘れていた。
 正確には、思い出そうともしなかった。

「何か思い出せたか?」

「はい……」

 僕は鼻を啜ると、頷いた。

「僕の母は……たくさん笑う人でした……」

 それから、ポツポツと話し始めた。

 記憶はまるで毛糸のようだ。
 端を引っ張ると、毛糸玉がコロコロ転がるように、
 失っていた思い出が次から次へと浮かんでくる。

 それは優しくて、楽しくて、
 愛に満ちた記憶だった。

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