人狼坊ちゃんの世話係

虚飾の檻(4)

 オレは目を瞬く。

「悪い、意味が分からなーー」

「この心も。身体も。全て、俺のものにしたいと言った」

 鉤爪の先で、シロはオレの胸に触れた。

「は……?」

 シロの言葉を理解するのに、数秒かかった。

「……何、言ってんだ、お前。
 ムリに決まってんだろ。
 オレはユリアの恋人だ。他のヤツのものになんてなるかよ」

「俺が貴様を抱いたとしても、アイツは知りようがない。そうだろう?」

「そういう問題じゃねえだろ!」

 押しのけようとするが、覆いかぶさる巨?はビクともしなかった。

「……てめぇ。退けよ」

「言われて退くと思っているのか」

「また、お得意の嫌がらせか?
 この前も言ったが……オレにだって考えがあるぞ」

「嫌がらせではない。
 言葉の通りだ。……ユリアではなく俺を選べと言っている」

 そう囁くと、シロはオレの腕を掴み上げ、牙を立てた。

「いっ……」

 プツリと皮膚が破れる感触に、顔が歪む。
 舌を伸ばして血を舐め取るシロの手を、オレは渾身の力で振り払った。

「さっきから……お前、意味分かんねえ。
 何が選べだ。それじゃ、まるで――」

 視線が交錯する。

 オレは目を見開いて、それからゆっくりと視線を逸らした。
 けれど、シロはそれを許さずオレの顎を掴んで視線を合わせてくる。

「……お前、どうしちまったんだよ」

 オレの問いを無視して、シロは続けた。

「俺は今までアイツの切り捨てたものを受け入れてきた。
 母親の死。父親の死。
 この間の貴様との言い争いもそうだ」

「だから、なんだよ」

「アイツは軽々と切り捨てる。
 貴様とのことも。俺には、それが許せない」

「……自分の知らないうちに人殺しになってたら、
 誰だってパニックになる」

「ああ、混乱はするだろうな。だが、愛する者との時間を忘れたりはしない。
 少なくとも、俺ならば手放さない。
 どれほど悲しい出来事だろうと、どれほど自分の無力さを思い知ろうとも。
 ……愛しているからだ」

「……お前がどうしようが、オレには関係ねえ」

「俺は貴様を愛している。
 だから、ユリアに渡したくない」

「なんでそんなことになってんだよ……」

 オレは頭を抱える。

 冗談だと思いたかった。また、この前の本の時のようにからかっているのだと……

 けれど、オレを見つめるシロの眼差しは、真剣だった。
 ……身動き出来なくなるくらいに。

「オレが愛してるのは、ユリアだ。
 お前のことはアイツの一部として大切に思ってる。けど、それだけだ」

 下から抜け出そうと暴れるも、
 両肩をキツく掴まれ、地に押し付けられた。

「てめぇ……いい加減、離せよ」

「メティスを無事出られたのなら、何でも言うことを聞くと言った」

「聞けることと聞けないことがあるだろ」

「……ならば、俺がユリアの記憶を拒絶しても、文句は言うなよ」

「なに……?」

 シロはオレの上から退くと、ふいと顔を背ける。

「今すぐ、ユリアに全てを返す。
 過去にアイツが切り捨てた、全てをだ。
 アイツだけ良い思いをして生きているのは気にくわない。共に傷つくべきだ」

「な……」

「俺は一人で耐えてきた。耐えざるを得なかった。
 ヤツのように逃げることは許されなかった。
 次はアイツの番だ」

「ガキみてぇなコト言ってんじゃねえよ!」

 オレは身体を起こすと、声を荒げる。
 シロはこちらを見ずに鼻を鳴らした。

「俺は、俺の落とし所を捜しているだけだ」

「てめぇのそれは脅迫だ!」

 握りしめた拳が震えた。

 確かに、コイツはずっとユリアの代わりに苦しんでいたんだろう。
 もしかしたら、ひとりで抱え続けるのは限界だったのかもしれない。

 それならそれでいい。
 助けてくれと言われたのなら、出来る限りのことをしてやりたい。
 今までユリアを守ってくれていたのは、コイツだからだ。

 でも、ユリアを裏切る真似は出来ない。
 そんなの本末転倒だ。

「欠如した記憶を一気に戻されたらユリアがどうなるかなんて、
 考えなくても分かるだろう!?」

「アイツがどうなろうがどうでもいい!」

 声に、空気がビリビリと震える。
 ヤツは肩で息をすると、喉奥で笑った。

「……もしかしたら耐えかねて、2度と表へ出てこなくなるかもしれないが……
 俺としては願ったり叶ったりだ」

 そう言うと、シロは急に口を噤んで瞼を閉じる。
 何かに呼びかけるような素振りに、オレは堪えきれずにヤツに駆け寄った。

「おい、何してる!?やめろっ……!」

 ヤツはゆっくりと目を開けると、手の甲でオレの頬に触れた。

「……もっと自分を見ろ。バン。
 貴様が本当に求めているのは、子守りの相手ではない。共に歩く相手だろう?」

 胸の動悸が激しさを帯びる。
 握りしめた手のひらに、嫌な汗が浮かんだ。

「俺ならば貴様の隣を歩ける」

 吐息がふれるほど近付いて、シロは言った。
 オレは……何度も言葉を探して唇を無意味に開閉させる。

 やがて、オレは顔を上げた。

「例え、お前の言う通りだとして……
 共に歩けるなら誰でもいいなんてことはねえよ。
 歩くなら、ユリアがいいんだ」

 ユリアはオレにとって特別だった。
 弱い部分も含めて、彼の全てが愛おしい。

「……お前じゃダメなんだよ。
 オレは、ユリアが……可愛いんだ」

「俺は、アイツが恨めしい。
 何もせず、文句ばかり垂れながら、
 貴様の愛を一心に受けるアイツが――」

「たまらなく、羨ましい」、と人狼は続けた。

 ああ、コイツは本気だ。

 心がしん、と冷えていく。

 きっとどんな言葉を弄しても、無駄だろう。
 オレが受け入れなければ、コイツはユリアに全てをぶちまける。

「貴様を抱きたい。……抱かせろ」

 どうして、こんなことになった?
 オレは何を間違えた?

 ふと、ユリアの姿が脳裏を過ぎる。

 オレが今、コイツを完全に拒絶したなら、
 ユリアは壊れるかもしれない。
 でも……壊れないかもしれない。

 しっかり受け止めて前へ向かって歩き出すかもしれない。

 それは、誰でもないオレ自身が言ったことだ。

 そうだ。人狼の脅しに屈する必要はない。
 ユリアなら、大丈夫だ。ユリアなら――

『罪を犯してまで、共に生きたいとは思わないよ』

 涙で濡れた眼差しを思い出して、オレは息を引き攣らせる。

 人を殺した衝撃と、両親を救えなかった自責の念と、
 愛されていたことを否定し続けた事実を彼は……
 本当に、受け入れられるのだろうか。

 大きな体を丸めてすすり泣く彼の姿が、
 瞼の裏に、鮮やかに蘇る。

「……クソが」

 オレはシャツを脱ぎ捨て、引き抜いたベルトを地に放つと、人狼を睨め付け吐き捨てた。

「……さっさと済ませろ」

「そう焦るな。せっかくだ、貴様も楽しめ」

「誰がっ……」

 鋭い眼差しが、キラリと紅に光る。
 その途端、全身が燃えるように熱くなった。

「……っ」

 逞しい腕に抱き寄せられる。
 熱い大きな手のひらが、素肌に触れる。

「ユリアは過去を乗り越える……
 そうしたら……てめえは、もうお払い箱だ……」

「そうだろうな」

 呪うようなオレの言葉に、人狼は素っ気なく頷いた。

 ――夜が、更けていく。

 キスの代わりに牙を。
 甘やかな抱擁の代わりに、破壊的な快楽を。

『……これからは僕だけ』

『目を瞑ってても、僕のことだけ感じるように、
 他の誰のことも思い出さないように、
 僕で上書きするんです』

 激しく揺さぶられながら、オレは湧き上がるものを耐えようと、
 腕を目元に押し付け唇を噛んだ。

「血が滲んでいる……」

「んンッ……」

 唇をこじ開けられ、獣の指が中に押し入ってくる。   「は……ぁ……」

 舌を弄ばれ、唾液が溢れて顎を伝った。

「噛みたいなら俺を噛めばいい」

 腕を退かされ、覗き込んでくる眼差しが、
 ユリアのそれと重なる。

 ……その時、オレは何故か屋敷で食べた煮詰めたリンゴを思い出した。

 その薄切りされた飴色の果肉は、砂糖にまみれ、鍋の中で照り輝いている。
 けれど、オレはずっと前から知っているのだ。
 甘い香りの裏で、そのリンゴの底が黒く焦げていることを。

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