命の雫(4)
人狼が小さく目を開く。
オレは言葉を続けた。
「心臓は、お前らにとって回復の要だって、ユリアが言ってた。
つまりオレの体は――血は、お前にとっても薬になるんじゃねえか」
束の間の静寂。
やがて人狼はオレの手を振り払うと言った。
「断る」
「……なんでだよ?」
「貴様の血は不味い。臭い」
「えり好みしてる場合か」
むべもない応えにオレは口の端を引きつらせた。
まずかろうが、臭かろうが、
生き残るために出来ることはなんとしてもして貰わねば。
オレはシャツの袖をまくると。
ヤツに向けて腕を突き出した。
「ほら。吸え」
ワガママを言っている暇はないと言うのに、
人狼は鼻にシワを寄せると、ふいと顔を背ける。
「お前な……」
オレはガクリと項垂れた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で拒絶されると、
普段よりも傷付く。
すると、人狼は誰にともなく呟いた。
「……殺してしまうかもしれない」
「なに?」
オレは顔を持ち上げる。
「この状態で貴様の血を吸えば、
全て飲み干すまで、止まれなくなると言っているんだ」
チラリとオレを見てから、
人狼は再び寝そべり、伸ばした前足に顎を乗せた。
どうやら、オレの身を案じてのことらしい。
オレは目を瞬いてから、苦笑をこぼす。
「そこは、我慢しろよ。
飲み干したら、お前も死ぬだろうが」
「……黙れ。いいか、俺のことは放っておけ。
死にはしない。逃げ切るまではもつ」
「イヤなんだよ、
ただでさえ、オレのせいでこんなことになってのに……っ」
「そうして大人しく落ち込んでいろ。
俺は寝る」
吐き捨てると、人狼は瞼を閉じてしまう。
「あっ、おい……」
オレはヤツの前に回ると、体を揺すった。
「なあ。
頼むから、ケガ治してくれよ」
無視される。
「おい。おいってば」
オレは口の辺りを引っ張った。
それでも沈黙が続く。
「なあ、頼むよ……」
本気で吸う気はないらしい。
こちらの身を案じるだなんて、相当弱っているに違いないのに……
オレは肺が空っぽになるような、溜息をついた。
「……お前って、ユリアに似てるよ。
そういう頑固なところとか」
ピクリと耳が動く。
「アイツもこれと決めたことは絶対に受け入れねぇし」
「……一緒にするな」
オレはさりげなく、リュックを引き寄せた。
短剣を中で抜き放ち、袖でくるんで人狼の近くに座り込む。
「そいやさ、お前の名前って何なんだ?」
「貴様のような下等な者に名乗る名など持ち合わせていない」
「でも、ユリアって呼ぶと怒るし、名前ないと不便だし……
まあ、いいや。勝手に付けるから」
「なに?」
「お前は今からシロな」
「なっ……!」
人狼が――シロが、顔を上げる。
そのタイミングを見計らって、オレは短剣で自身の腕を切りつけた。
「……貴様」
黒い鼻先に、ポタポタと赤い雫が落ちる。
苛立たしげに鼻に皺を寄せたシロに、オレはニッと口の端を持ち上げた。
「舐めないと、もったいないぞ」
「……先ほどの名を撤回しろ」
「シロのことか? いいだろ、可愛くて」
「喰い殺すぞ!!」
「その時はお前も死ぬけどな」
シロは鼻に皺を寄せ、低く唸ってオレを睨めつけてくる。
しかし、それも数秒のことで、ヤツは渋々ながら傷に舌を伸ばした。
「ん……」
ヤツの眼差しが、一瞬、キラリときらめく。
オレはそれを見逃さず、すぐに傷が癒えた腕を再び斬り付けた。
すると今度は、押し付ける間もなくヤツは血を舐めた。
「なあ、まずいか?」
「……ああ、まずい。 貴様の血は甘くて、胸焼けがする」
不機嫌そうに言って、シロは体を起こした。
「貴様の望む通り……飲んでやる」
次いで、オレの肩口を鼻先で押してくる。
その勢いのまま石畳に寝転がれば、
ヤツの巨躯が覆いかぶさってきた。
「……殺されそうになったら、
それでオレを突け。運が良ければ、冷静さを取り戻すだろう」
「そうならねぇことを祈ってる」
短剣を握り締めたまま、両手を広げる。
鉤爪が器用にオレのシャツのボタンを外した。
外気に触れた素肌が、泡立つ。
「……噛むぞ」
「おう」
脱いだシャツを放れば、
シロの鼻先が首筋に触れた。
「ちょ、こら、嗅ぐなっ…… くすぐってえ……」
次第に、ヤツの呼吸が荒くなっていく。
怜悧な眼差しがギラギラと輝き始め、
続いてグワッと大口を開けた。
鋭い犬歯が覗く。
オレは奥歯を噛み締めると、目を閉じた。
「ぐっ……」
肩口に、深く、牙が突き刺さる感触。
けれど、不思議と痛くはない。
なんだ、これ……
血が抜けていく。
全身から力が抜けていく。
「……ぁ」
再び噛みつかれ、身体がビクリと震えた。
その拍子に手から短剣が滑り落ち、石畳に当たって甲高い音を立てる。
すぐに拾い上げなければ。
そう思うのに、指先はピクリとも動かない。
「はぁ……はぁ……
……まだだ。まだ、飲ませろ」
荒い呼吸が吹き掛かり水音が耳に届く。
「お、い……殺す、なよ……」
「……フン。1度も2度も変わるまい」
また噛まれた。
いや、もしかしたら……喰われているのかもしれない。
しかし目を動かすのも億劫で、オレはされるがままだった。
意識が朦朧としてくる。
「は、ぁ……あ……」
口の端から、飲み下し切れなかった唾液がこぼれた。
頭がふわふわして、心地良さすら感じてくる。
「……馬鹿が」
シロが何か言った。
声が遠く、理解が追いつかない。
「殺すな、だと?
…………殺さない。殺すものか」
目の前が暗くなっていく。
オレは奇妙な浮遊感を覚えながら、気が付けば意識を手放していた。