命の雫(1)
この世界は広大だ。
何百年も生きてきたけれど、楽しみは尽きない。
遊び場は夜に限られているが、
それでも充分、面白おかしいことで満ちていた。
「あー。これ、外れないかなあ」
俺は今、冷たい石畳に転がされている。
両の手足は随分前に斬り落とされて、
切断面を銀で覆われてしまっていて、再生すらさせて貰えない。
その上、鎖で床に張り付けられ、銀のマスクまではめられている。
その入念さを思うと、俺はいつも楽しくなって、フフッと笑ってしまうのだ。
俺はジルベールが大好きだ。
綺麗で透き通っていて、優しくて、壊れているから。
「ジルベール。ジルベーーール。
早く帰ってきてよ。アンタがいないと、つまんないよ。
――ブッ殺すぞ!!!」
暗い牢は、物音ひとつしない。
呼んでも、叫んでも、応えてくれる相手はいない。
「退屈で死ぬって言ってんだろ!?
おい、誰か聞いてんのかよ!……って、誰もいないのは分かってるんだよねえ。
あああ、死んじゃうよーー。死んじゃう」
ジルベールに調べられている時みたいに、
気絶するほど痛くて絶叫していた方が遙かにマシだ。
「あーあーあー。あーー。あああああ」
ジルベールに会いたい。
彼がココに来なくなってから、数日が経過していた。
外に捜しにいきたいのに、自由にならないこの身が恨めしい。
彼と離れている時間は、
瞬く間のようなものなのに、とてつもなくイライラする。
暴れても、鎖はビクともしない。
バタつかせる手足もない。
「……はあ、めんど」
何もかもが急に億劫になった。
もう死んでしまおう。うん、それがいい。
当てつけだ。面倒だ。もういいや。
「――って、ヴァンパイアが死ねるかよッ!」
舌を噛んでから、俺はゲラゲラ笑った。
「自分の血って美味しくないんだよね」
でも勿体ないから飲む。
そんなことをしていた時だ。
「……およ?」
地下へと続く階段を下りてくる、
3人分の足音が耳に届いた。
男……若手の処刑官だ。
足音に乱れがある。
「ジルベール様、も、もう少しです!」
彼らは焦っていた。怯えていた。
それから、彼らは何かを引き摺っていた。
血の臭いが鼻をつく。
「しっかりなさってください。地下に到着しましたよ……!」
震える声で言って、処刑官が部屋に入ってきた。
しんと静まり返っていた部屋が俄に賑やかになる。
「ジルベール!」
俺はジルベールを呼んだ。
「どうしたの、なんで死んでるの!?」
「しっ……!?
き、貴様、ふざけたことを言うな!!」
処刑官の1人が悲鳴のような声をあげる。
「え、だって、それ死んでるよね? 息してないもの。
あんたたちが運んでるの、死体でしょ」
「ち、違う。俺たちは……!」
「おい、それ以上近付くな。
コイツはヴァンパイアだぞ」
冷静な方が、相方を制止した。
それから、ゆっくりとジルベールを床に置いた。
「……ジルベール様は、コイツに会わせろと言った。
何か考えがあってのことだと思ったが、
こうなっては――」
「嬉しいなあ、ただのオモチャが俺のことをそんなに愛してくれるなんてさあッ!」
「貴様!」
「落ち着け。コイツと話している場合じゃないだろう。
今はこれからどうするかを考えねば」
そんなやりとりの中、微かな音がした。
耳を澄ませば、それはジルベールの喉から漏れる空気の音だった。
「じ、ジルベール様……!?」
彼は呆然自失の2人の部下を振り払い、床に崩れ落ちた。
そして、ズルリ、ズルリ、と俺の方へと這いずってくる。
こちらの顔を覗き込んできた彼は、
元の顔が思い出せないくらい、ボロボロだった。
美しい切れ長の目は潰れて淀んでいたし、
輝くばかりの白い歯も、折れて血で染まり、
白磁の肌は黒ずんでいた。
「うわーあ、ぐちゃぐちゃじゃん。何があったのさ」
彼の心臓の音は止まっている。
どうして彼が動いているのか分からないけれど、
きっと、物凄い執念で動いているんだろう。
俺は、彼が俺に会わなければならない理由を考えてみる。
ああ、もしかしたら……
彼は俺に噛んで貰いたかったのかも。
そうしたら、命だけは長らえることが出来るだろうから。
でも、マスクのせいで彼に噛みつくことは出来ない。
処刑官たちがこれを外してくれるわけはないし、
ジルベールにこれを外す気力があるとも思えなかった。
……別れはいつだって突然だと思い知る。
「ジルベール。残念だねえ、無念だねえ。今までの苦労も努力も全部パア。
ははははっ! 笑える、クソ笑うわ、この無能が!」
彼は俺の身体に覆い被さるようにした。
俺は瞼を閉じた。
サヨナラ、ジルベール。
あんたみたいに、面白いオモチャは他になかった。
もっとずっと、長く、遊んでいたかったよ。
彼の美しく無駄な人生に、黙祷を捧げる。
首筋に痛みが走ったのは、そんな時だ。
「およ?」
目を開ければ、ジルベールが俺の首筋に噛みついていた。