赤の饗宴(1)
――どれほどの時間が経ったのだろう。
「ぐっ……ぅ、えっ……っ」
胸ぐらを掴み上げられ、腹に拳を食らう。
骨が軋むほどの重い一撃に、オレは床の上を激しく転がった。
呼吸と共に、時間すら止まったように思えた。
奥歯を噛みしめて痛みに耐えるしかできないオレを、
獣は軽々と掴み上げ、再び殴る。
獣はじゃれるようにオレを、鉤爪で削り、殴り続けた。
肋骨が折れたのか、うまく息ができない。
血を流し過ぎたのか意識が朦朧として、反撃する気すら起こらない。
視界が歪んでいる。次第にオレは痛みすら感じなくなっていく。
「……つまらん。
ニンゲンというものは、つまらんな。
少し遊んだだけで、もう壊れそうだ」
「……お前……な、んなんだよ……」
掠れる声を出せば、右頬を殴られた。
「……ッ」
「誰が話していいと言った? 身を弁えろ、下等生物が」
獣は忌々しげに鼻に皺を寄せると、オレを放った。
受け身なんてできず、もろに背中から落ちる。
オレは力なく肢体を投げ出す。浅い呼吸を繰り返し、
ただただ出口だけは見失わないように視線を彷徨わせる。
「ああ、鼻が曲がりそうだ。腹の底までドブの匂いが染みついている。
……よくもこんなゴミをこの屋敷に住まわせたものだ。
ああ、腹が立つ。腹が立つ……!」
誰にともなく呟いて、獣は部屋をウロつき始めた。
「クソ、クソクソクソ、ヤツめ、徹底的に追い詰めねば気が済まん……!」
オレは朦朧とする意識の中で、床を這う。
しかし、半歩も進まず足首を掴まれた。
「……何処へ行く」
「ぐっ……」
ずるずると引きずられ、元の位置まで戻されると仰向けに蹴り転がされる。
これは、悪い夢だ。
獣はしゃべらないし、こんなにデカくもない。
……早く朝になってくれ。
冷たい眼差しが見下ろしているのを感じる。
オレは瞼を閉じた。
朝になったら、着替えて、ユリアの部屋へ行くんだ。
あいつが元気なら、一緒に庭の手入れをして。
それから紅茶を淹れて、いつものようにお茶をして、また庭の手入れに戻って……
今度こそ、手首の傷の理由を聞くよ。
お前のこと、助けたいんだって伝える。
「……ユリア」
「その名を口にするな」
「がはっ……!」
獣の足が、容赦なくオレの顔を踏みつける。みしみしと頭蓋骨が軋む音がした。
このまま頭を潰されるかと思った。
「やめ……」
死にたくない、と思う。
『あなたの身に何かあったら、僕は……凄く、哀しいです』
もしも、これが悪い夢じゃなくて、現実だったら。
また、ユリアは一人になってしまう。オレは彼を哀しませてしまう。
死にたくない。
ユリアの叔父は、また誰かをプレゼントをするんだろうか。
そうしたら、ユリアはソイツにまた甘えるんだろうか。
……嫌だな。嫌だ。うん、嫌だ。
甘えるなら、その相手はオレであって欲しい。
血の滲んだ唾液を飲み下して、オレは舌を震わせた。
「……死に、たく、ない」
獣が目を大きく見開く。
束の間の沈黙の後、喉を鳴らす低い音が耳に届いた。
「……ことごとく、気に入らん」
「……?」
「おままごとは楽しかったようだな。
ニンゲンにほだされるなど、ヤツめ、王としての自覚がなさすぎる」
踏みつける足に、力がこもる。
ああ終わりか。
悔しさが込み上げてくると、ふ、と、頭の圧迫感が消えた。
乗せられていた足がどけられたのだ。
「――矯正せねば。
ヤツの甘ったれた記憶を。全て。全てだ。
この俺が上書きしてやる」
獣は一人得心したように頷いた。
怒りでいっぱいの表情に、喜色が滲んでいく。
「逃げ込む過去すら徹底的にな」
獣はクツクツと低く笑った。
「ユリア、よく《観て》いろ。
貴様の知らない、この男を俺が教えてやる。
二度とふやけた考えなど持てないように……めちゃくちゃにしてやる」