人狼坊ちゃんの世話係

眠れる、熱い毒(12)

 あ、ぶなかった……

 ツと背中に、冷たい汗が流れる。

 危機が去ったわけではない。
 ただ、その最後の時が先延ばしされただけだ。

 足下で、真っ黒な崖が口を開けていた。
 噴き上げる冷たい夜風に、足が揺れる。    城壁の壁面は敵に登られないよう細工がしてあるのか、
 足が滑って上手く登ることが出来ない。
 何度か滑り落ちそうになっては、
 指の力だけで必死に城壁にしがみ付く。

「貴様……!」

 僅かに覗く視界の先で、人狼がジルベールに今にも飛びかかろうとしていた。

「邪魔だ、そこを退け!」

「あなたが協力してくれると言うのなら、
 すぐにでもここを退きますよ」

「消え失せろ!」

 咆哮をあげながら、人狼がジルベールへと襲い掛かる。
 しかし、彼は巧みに人狼の攻撃をいなし、
 一歩も前へ進ませようとはしない。

「誰か、彼の下へ」

 ジルベールの言葉を受け、
 今まで微動だにしなかった鎧の男の1人がオレに近付いてきた。

「なに、する気……」

「踏んであげなさい」

 おい、おいおい、マジか――

「ぐっ……」

 鉄の靴が躊躇なくオレの指を踏む。

「彼はあなたにとって、とても大切な人なのではないですか。
 下らない意地を張っていると、失ってしまいますよ?」

 靴裏と石畳に挟まれた指の感覚が、徐々に薄れていく。
 意識が足下に向いてしまうのを止められない。

 落ちたら、どうなる?
 普通に考えれば、自己治癒の力は役には立たなそうだ。
 地面に降り立ったオレは、潰れたトマトになっているだろう。

 全身から嫌な汗が噴き出す。

「……貴様に何が分かる」

「ええ、何も知りません。
 ですから、教えてくださいよ。
 あなたのことを……体の、隅々まで」

 人狼は必死に攻撃を続けているが、
 ジルベールの守りを突破する気配はない。

 いよいよオレは指の感覚を失い、片手が滑り落ちた。

「クソッ……」

 なんとか片腕で体を支えることに成功したものの、
 それも長くはもたなそうだった。

 目の前の男が、今まさに残った指を踏み潰そうとしている。

 オレは歯を食いしばった。
 ここで耐えなければ、何もかもが終わりだ。

 その時――

「え……」 

 オレは見張り塔に繋がる出入口の奥に、見知った顔を見た。

 丈の合わない神官の服を纏っている。
 鼻にそばかすの浮いた、眼鏡の……

 彼の唇が動いた。

『目を閉じてください』

 彼の囁きは、きっと風の音よりも小さかっただろう。
 けれど、獣の耳には充分だったに違いない。

 オレは、瞬時に人狼を見た。
 バチリと視線が交錯する。

 オレはすぐさま俯いた。
 それと同時に、頭上で瞼裏が灼けるほどの光が爆ぜた。

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