秘密(2)
目を丸々と見開くユリアに、オレは肩をすくめた。
「大したことない。バラの棘が刺さっただけだよ」
もうとっくに傷口は塞がっている。
けれどユリアは納得できないのか、顔をしかめてオレを床に下ろした。
「ダメですよ。バイ菌が入ったら大変です。
ちょっと待っていてください」
そう言うと、棚から小さなガラスの壺を持って戻ってくる。
「さ、手を出して」
「いや、だからもう血は止まってるし……」
「早く」
渋々手を差し出せば、ユリアは丁寧に軟膏を傷に塗り込めた。
それから、わざわざシルク地のハンカチで覆う。
「……これでよし、と」
「お前はいちいち大袈裟だ」
「あなたが無頓着過ぎるんです。
いいですか、ちょっとの傷で死んでしまう人もいるんですよ。
もしもあなたの身に何かあったら、僕は……」
一度言葉を区切って、眉根を下げる。
「凄く、哀しいです」
「大丈夫だよ。傍にいる」
言い聞かせるように口を開くと、
ハンカチを巻きつけたオレの手を握り締めて、ユリアは頬を寄せた。
「……お願いです。傷ついたりしないでください。
もっと、自分のこと大事にしてください」
祈るように告げられた言葉は、隅々まで優しさがこめられている。
「分かってる」
たまらないな。そう思った。
くすぐったくて、たまらない。
こんな風に、慈しまれたのなんて、随分と前だ。
母が生きていて、まだ弟たちが生まれていない頃のこと……
家を出たら、オレの体は金銭の対価だった。
いや、「世話係」である今も変わりはない。
でも、ユリアの言葉は……オレを付け上がらせる。
オレはこみ上げてくるものを飲み込んで、ぎこちなく笑った。
半年という時間は、ぼんやりした感情を定義づけるのに十分過ぎる時間だ。
「大事にするよ。じゃねぇと、お前の世話できねぇもんな。
つって、大して世話係らしい仕事してねぇけど。どっちかっつーと、バラの世話係だし」
オレはそっとユリアの頭に手を乗せる。
柔らかな髪の感触に、胸の鼓動が速度を上げた。
……初めは、おいてきた弟や妹たちにユリアを重ねていた。
次に彼を取り巻く孤独を知って、何とかしてやりたいと思うようになった。
素直に甘えてくるユリアは可愛い。朝から晩まで、子犬みたいにまとわりついてくる彼を可愛くないと思えるはずがなかった。
時折、彼は自重して少しだけ距離を置く。そんな姿がいじらしくて、その度にオレは大丈夫だと言い聞かせて腕を引いた。
いつの間にか……「可愛い」の他に別の感情が芽生えていた。
彼に触れられる度に、無視できないほど胸が苦しくなった。
「ってか、……そんなにオレ、簡単に死にそうか?
こう見えても、生きることには意地汚いぞ」
「それでも僕からしたら、か弱いから」
「か弱いって……お前な。
背が低いだけで、か弱いはないだろ。っつーか、お前がデカ過ぎるんだ。
世間的にはオレの身長は平均、いや、平均よりチョイ上ぐらいだぞ」
肩を揺らして笑う。
けれど、ユリアの不安は拭えないらしい。
「あのね、バンさん。僕は……」
「ん?」
「……いえ」
「途中で止めるな。
何かあるんだろ? 言いたいこと」
言葉にならないものを伝えようとするように、
ユリアが自分の頭を撫でていたオレの手を握る。
オレはその手を取り返し、そっと握った。
「……っ」
ピクリとユリアが震える。
オレの指先が、彼の手首にかかっている。
オレは意思を込めて、袖の上から「傷」を撫でた。
「大丈夫。お前が何を言ったって受け止めてやる。だから……」
「ごめんなさい」
固い声が、言葉を遮る。
オレはハッとした。それから、ゆっくりと手を離す。
付け上がっていた。
特別でありたいと願うあまり、自分は彼にとっての特別だと思い込んでいたみたいだ。
「そか。分かった」
いつか彼が悩みを、
今、言葉にせず飲み込んだものを、打ち明けてくれたらいい。
大丈夫だよ、ユリア。
オレはお前が思ってるよりも、色々経験してる。
だから、大抵のことは受け入れられるんだ。
それを見越して、お前の叔父さんはオレを選んだんだよ。
春の雪解けを待つように、ただオレは彼が口を開くまで待つしかない。
もどかしいけど、やるせないけど、こればっかりは仕方ないのだ。
――そう思ってたけど。
廊下に点々と続く血の痕を見たら、話は違ってくるだろ?