人狼坊ちゃんの世話係

陽だまりと地図(1)

 その日の夜。
 結局、オレはユリアの部屋にいた。

『あなたには絶対に触れません。約束しますから!』
 そう足に縋り付かれて粘られたのだ。

 オレはユリアが寝付くまでという約束で承諾し、
 デスクで書斎から借りてきていた本を読んでいた。

 灯りのロウソクを引き寄せ、細かな文字に目を眇める。

 しばらく恨めしげな視線をうなじ辺りに感じていたが、
 鋼の意思で本を読み進めていると、
 やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。

 キリのいいとこまでいったら、自室に戻るか。

 そう思いながら、オレはページを繰る。
 今日は珍しく、恋愛小説を引っ張り出してみた。
 学術書に比べれば断然読みやすかったが、やはり辞書がないと進まない。

「氷の、上に……牛がいない……?
 ……意味が丸きり分かんねぇ。
 なんで、こんなシーンで牛……」

 単語の意味を辞書で調べながら、がしがしと頭をかく。

 すると、ベッドが軋む音がした。
 ユリアがトイレにでも起きたのだろう。
 気付かないフリを貫こうとすれば――

「それは『心配するな』という意味だ。
 単語の後ろの説明に、慣用語句が並んでいるだろう」

 声にハッとして振り返れば、
 思わぬことに、人狼が立っていた。

「なっ……!」

「ふん。辞書の使い方くらい覚えろ。この低脳が」

 咄嗟なことに、動けない。
 まじまじと白銀の獣を見上げていると、
 ヤツは尊大な様子で、首を傾げた。

「何を驚いている?」

「……満月まで、まだ2週間以上もある。
 どうしてお前が出てるんだよ」

「さてな」

 軽くいなすような応え。
 落ち着き払ったその態度は、久々に外に出てきた様子ではない。
 まさか……

「お前、いつから満月以外でも出られるようになった?」

 確信を込めた問いに、鋭い眼差しが細められる。
 ヤツの鉤爪が、こちらに伸びた。

 息を飲めば、それはオレを超えて、
 デスクで開いていた本のページを数ページ繰ると、表紙を閉じた。

「……どうだろうな。
 だが、間抜け面で寝入る貴様の顔は見飽きた」

 人狼は、唸るような声で告げた。

 つまり、オレはコイツの隣で暢気に夢を見ていたらしい。
 全然、気付かなかった……
 愕然とすれば、獣はふいと視線をオレから革張りの表紙に戻した。

「にしても、辞書を片手に読むには、随分とくだらないものを選んだものだ」

 声色に柔らかなものを感じてオレは顔を上げる。
 爪の先で表紙をなぞる人狼の眼差しに、懐かしむような光が見えて、
 オレは思わず口を開いた。

「もしかして……この本、読んだことあるのか?」

「……貴様はこの俺が文字など読めないと、
 そう考えているのか?」

「は?」

「だとすれば、その頭の悪さは万死に値する。
 今すぐ無用のその頭部、ひねり潰してやる」

 言うやいなや、逞しい右手がオレの頭を鷲掴む。

「ちょ、待て待て待て! そうじゃねぇよ!」

 オレはその手を慌てて掴んだ。もちろん、ビクともしなかった。

「なんつーか……懐かしそうにしてたから、
 知ってんのかなって思っただけだって!
 ってか、オレの頭潰したら、お前も流石に危ないだろ」

 ケガを治癒出来るとは言え、
 頭部は他の部位とは違う、特別な箇所である気がしないでもない。

 そうならば、潰せば死ぬ。俺も、コイツも。
 試すにしてもリスクが高すぎるだろう。――もちろん痛いのはイヤだから、
 そういう意味でも御免被りたい。

 人狼もオレと同じ考えに思い至ったようだ。

「……ふん」

 ヤツはつまらなそうに鼻を鳴らすと、オレから手をどけた。
 それから、しばしの沈黙の後、

「……俺ではない。読んだのはユリアだ」

 獣はつまらなそうに言った。

「ユリア?」

 どうして、コイツがユリアが読んだことを知っている?
 いや、そもそも、今の言い方じゃまるで……

「お前、もしかして……ユリアと記憶を共有してるのか……?」

-106p-