最果ての約束(10)
「え、っと……」
向けられた、鋭い視線。
言葉を探せば、彼は小さく噴き出して前髪を掻き上げた。
「なんて、すみません。ちょっと、意地の悪い言い方をしました」
「あの、どうしてですか。僕は、あなたに何か失礼を?」
「ああ、いえ、そうじゃないです。
正直なところ、俺は……いえ、俺たちは、
あなたのことをよく思ってはいませんでした。
憎んでいた、と言った方がいい」
「憎んでいた……」
「酷い好事家に買われたんだと思っていたんです。
まあ、兄の幸せそうな顔を見たら、俺たちの誤解だったと分かったんですが」
ダニエルさんは、寝息を立て始めたバンさんを見ると、
過去を思い出すように目を細めた。
「……今でも、兄が買われた日のことは覚えてます。
兄は嬉々として、金払いの良い貴族に買われたと言いました。
俺たちは、その値段を聞いてすぐに普通じゃないとわかりましたよ。
でも、兄はそのことには一つも触れなかった。
お前たちのことを、安全な町に移動させてやれる、戸籍も買ってやれる、
そうしたら勉強も出来るし、仕事も選べる……
そうまくしたてるように言った兄は、とても嬉しそうだった。
でも、握りしめた手は冷たい汗で湿っていた」
小さな溜息が落ちる。
「俺たちは必死で止めたけど、もう話は決まったからの一点張り。
あれよあれよと引っ越しをさせられて、兄はいなくなり、
俺たちの元には莫大なお金だけが残りました」
「ダニエルさん……」
「きっと兄は酷い目に遭うだろう。
それを理解して俺たちのために、買われた。
ーー悲しかったですよ。
兄は全部自分ひとりで決めてしまったから。
だから、俺たちは、必死に勉強して、お金をためて、
兄を探し出して迎えに行こうって決めていたんです」
「そうだったんですね」
「もちろん、あなたの家から振り込まれ続けているお金には、
ほとんど手を付けていません」
「それなら、生活は――」
「先生の病院で、アルバイトしてるんです。俺も、カレンも。
三男はテーラーになるため、住み込みで師事しています。
それに、ここは地方とはいえ商業都市ですから。
大きな元手があれば、増やすことはそこまで難しいことじゃないんですよ」
「そういうものですか」
「ええ」とダニエルさんは頷いた。
それから、気恥ずかしそうに空咳をすると、改めて僕に向き直った。
「とにかく、兄が買われた先が、俺たちの考えていたような相手じゃなくて良かった。
……ただ、少しだけ悔しいですけど」
「悔しい?」
「兄が誰かに甘える姿なんて初めて見ましたから。
俺たちじゃ、いつまで経っても守られる対象でしかなかったし……
子供じみた嫉妬心です」
そう言うと、彼は深々と頭を下げた。
「ユリアさん。兄のこと、よろしくお願いします。
どうか世界一幸せにしてください」
僕は少し緩くウェーブのかかったダニエルさんの黒髪を見つめる。
それから、深く頷いた。
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
顔を上げた彼が微笑む。
そのくすぐったそうな笑みは、バンさんのそれととてもよく似ていた。
「それでは、おやすみなさい」
ダニエルさんが踵を返す。
「ダンさん、いろいろと話してくれてありがとうございました」
「ふふ、あなたにクギを刺しただけですよ。
兄を悲しませるようなことがあったら、今度こそ連れ戻しに行きますから」
背中越しに振り返り、ダニエルさんが言う。
彼は脇に控えていたメイドさんたちに片付けを頼むと、
今度こそリビングを去っていった。
「……オレ、残されたアイツらのこと全然考えてなかった」
「……バンさん? 起きてたの?」
「……途中から」
僕の腕から逃れると、バンさんはフラつきながらも、ひとりで立った。
「……アイツらのためっていいながら、
オレはいつだって自分のことしか見えてなかったんだ。
お前にも、ハルにも言われた通りだった」
「バンさん……」
「そんな顔するなって」
僕を振り返り、バンさんが苦笑する。
次いで、こてん、と頭をこちらにすり寄せてきた。
「これからは……ちゃんと頼ったり、甘えたりするよ。
ひとりで、何でもかんでもやろうなんてしない」
「じゃあ、練習してみましょう」
「練習?」
「そう。今、バンさんは足元が覚束ないみたいですけど、
どうやって部屋まで行くんですか?」
「そ、れは……これくらい――」
「練習ですって」
「う……」
バンさんは押し黙ると、俯く。
じっと言葉を待っていると、彼は気恥ずかしそうに僕を見上げた。
「……部屋まで支えて欲しいんだけど」
「不正解です」
「はあ!?」
「正解は――」
僕は問答無用でバンさんを抱き上げる。
「うおわっ! おまっ、人がいるんだぞっ……!?」
「照れた顔も可愛いです」
「もうお前、黙れ……」
「あいたっ!」
ギュッと腕をつねられる。
でも、バンさんは暴れることもなく、大人しく部屋まで抱かれていてくれた。