人狼坊ちゃんの世話係

すっぱい苺

 甘菓子と紅茶を運んでいたオレは、主人の部屋の前で歩みを止めた。
 中から聞こえてくるピアノの音色を止めたくなくて、静かに佇む。

 穏やかな、午後だ。
 柔らかな日の光が、廊下に差し込んでいた。
 微かに聞こえてくる鳥の囀りに、音色が寄り添うように重なっていく。

 ふいに曲が止まった。
 代わりに足音が近づいてきて、勢い良く目の前の扉が開いた。

「バンさん!」

 顔を覗かせたのは、背ばかりでかい甘ったれ――我が主・ユリア坊ちゃんだ。

「どうして入って来てくれないんですか」

 彼はそう言うや否や軽々とオレを抱き上げた。

「おわっ……! ちょ、どうしてそう事あるごとにオレを持ち上げるんだよ!」

「え、だって……このフィット感がたまらないから」

 さも当たり前だと言うように答えて、坊ちゃんが頬を寄せてくる。

 ああ、もう……

 確かに、彼のいう通りフィット感は悪くなかった。
 頭一つ背丈が低いオレを抱き上げると、ユリア坊ちゃんの顎がちょうどオレの肩に乗る。
 オレは無理なく彼に寄りかかることができる。

 だが、問題はそういうことじゃない。

 困る、のだ。無駄に動悸がして、平静でいられなくなる……

「あのな、こういうのは――」

 フツー、恋人とか嫁さんとか。そういう相手にするもんだ。
 唇の先まで出かかった言葉を、オレは咄嗟に飲み込んだ。

 世間から隔絶された、この深い森に住む坊ちゃんは、とにかくスキンシップに飢えている。
 親とも疎遠、友もいないように見える彼にとって、甘える相手はオレしかいないのだ。

「……お前、オレのこと抱きぐるみかなにかと勘違いしてねぇか」

 オレは態とらしく溜息をついて、トレーのバランスを取りつつ、
 もう片方の手で坊ちゃんのハチミツ色の髪をくしゃくしゃとかき回した。

「バンさんだから抱っこしてるんです」

「……お前はまた、そういうことを」

 口の中で呟けば、ユリアがきょとんとする。
 なんて? などと聞き返されてはたまらない。オレは全力で話を逸らすことにした。

「そ、そういや、さっきの曲、いい曲だったな」

「いつも弾いてる曲ですけど……聞いててくれたんですね」

「聞いてたっつーか、聞こえてたっつーか」

「嬉しいなあ」

 目を細めて微笑む坊ちゃんの顔は、恐ろしく整っている。
 精悍で、それでいて目元には未だに幼さが残っていて、
 底抜けの明るさは、眩しいほどだ。

「今度は最後まで弾きますから、部屋の中で聞いてくださいよ」

「……分かったよ」

 真っ直ぐな眼差しを受け止めきれず、オレはふい、と顔を逸らした。

 ああ、クソ。顔が熱い。

「オラ。もういいだろ。下ろせ。紅茶、冷めちまうから」

「はい!」

 地面に足が着くと、ユリアはすかさず部屋までエスコートしてくれる。

「今日はイチゴのムースケーキなんですね」

「お前好きだろ? シェフに頼んだんだよ」

「大好きです。楽しみだな。あ、バンさんも一緒に食べましょうよ」

「いらね」

「たまにはいいじゃないですか」

「や、だってオレ、甘いの嫌いだし」

「俺が食べさせてあげますよ。そしたら、美味しいです」

「どういう理屈だ。ンなことで、味が変わってたまるかっての」

 そんな軽口を叩きながら、手早くティータイムの準備をする。

 いつもの午後だ。
 陽だまりのように、優しい時間だ。

 ……だから、オレは踏み込めない。

 彼の手首の傷の理由に。それが増え続ける心の翳りに。


『オレの可愛い坊ちゃんは、たぶん病んでいる』


「バンさん、イチゴなら食べられるでしょ? はい、アーン」

「だから、いらねって……んむっ」

「ね? 美味しいでしょ」

「……まあ、不味くはないな」

「ほら、僕のおかげだ」

「シェフのお陰だよ」

「えー」

 口の中に、酸っぱい味が広がる。

 なあ、ユリア。お前、何を悩んでるんだ?

 オレには話せないことか。
 オレだから、話せないことか。
 他の誰なら、お前を救える?

 オレは頭に浮かぶ全ての言葉を飲み込んだ。
 好奇心、忠義、親愛――この感情は、そういった純粋なものには分類できない。

 だから、オレは……やっぱり今日も踏み込めないでいる。
 毒の滲んだぬるま湯で、偽りの笑顔を張り付けている。
 身分違いも甚だしいと理解しているから。


 数週間後、オレは彼に殺されるわけだけど、
 これから語られる物語は、甘やかな恋の話だったりするのだ。

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