傘とボディランゲージ(2)
手を引かれ立ち上がると、類さんが口を開いた。
「酔っ払いにでもぶつかった? ケガは?」
「な……ないです……」
「そうか、良かった」
また類さんに会えるなんて……これは夢か?
「久々に店に顔出したら、イサミちゃんに今さっきあんたが来たって聞いて探してたんだ。随分落ち込んでたって言うし……何かあったのかなって」
彼は僕を連れて道の端に避けると、優しく問いかけてきた。
「部屋が雨漏りしてしまって……」
呆然としながら答える。
「マジか。そりゃ災難だったな」
「そう、ですね……災難と言えば災難でした……でも……」
鼻の奥がツンとする。
僕は唇を引き結んだ。
もう後悔したくない。
きっとこれは神様がくれた最後のチャンスだろう。
僕は1、2度、無意味に唇を開閉させてから唾を飲み下すと、類さんを真っ直ぐ見つめた。
「でも、お陰であなたに会えた」
きょとんとする類さんに、顔が熱くなった。けれど僕は握り締めた手を足に押し当てて、俯きたい衝動に耐えると続けた。
「……その、会いたかったんです。あなたに」
「洞谷……」
類さんが驚いたように目を見開く。
「失恋したばかりでこんなこと……軽薄だって、自分でも思います。
正直言うと、この感情が好意なのか、寂しさなのか僕には分からない。自分勝手な気持ちに、あなたを巻き込もうとしているのかもしれない。でも」
舌がもつれる。ちゃんと話せているか不安になる。
「でも、あなたと食事をして凄く楽しかったんです。だから、また会いたかった。会って、話がしたかった」
一息に告げる。
心臓がこれ以上なくバクバクしている。
類さんが気恥ずかしそうに俯いて、鼻の頭を指先でかく。
それから目を細めて笑った。
「どんな感情だっていい。巻き込んでくれるなんて本望だ。……そもそも弱ってるとこにつけ込んだのは俺だしな」
彼の笑顔に全身の血が沸騰する。
身体がバラバラになってしまいそうだ。
「うち来ないか。ここから近いんだよ。……そのままだと風邪ひいちまうし」
断る理由なんてあるわけない。
僕は「はい」と上擦った声で応えた。
* * *
類さんのマンションは、最寄りの地下鉄通路と直結していた。
カードキーをかざしウォールナット製の扉が開くと、芳しい香りで満ちた目も眩むようなエントランスロビーが広がる。
第一印象は、とんでもないところに来てしまった、だった。
磨き抜かれた大理石の床に、笑顔で出迎えてくれる美人コンシェルジュ、少し進むと流水の落ちる涼しげなパネルが設置されていて、その前には控えめにライトアップされた観葉植物が置かれていた。さながらホテルのようだ。
類さんは勝手知ったる様子で――いや当たり前なんだが――奥のエレベーターに乗った。
再びカードキーをかざし、1分もかからず目的階に到着する。
玄関を入った先にも、大理石の床が広がっていた。広さは、僕のアパートが一棟丸ごと入りそうなくらいだ。
狭い東京にこんなに広大な居住空間があることが信じられない。
「とりあえず、シャワー浴びろよ。着替えとかタオルとか持ってくから」
「は……はい……お借りしますね……」
再会の喜びのままついてきてしまったが、場違い感が半端なく、僕はそそくさと逃げるように教えてもらった部屋に飛び込んだ。
肌に張り付く気持ち悪い服を脱ぎ捨て、浴室に足を踏み入れる。
「……はぁ」
シャワーのお湯を頭からかぶって、僕は溜息を吐いた。
前髪を伝って流れ落ちる水滴を見つめているうちに、だんだんと思考が巡り始める。
豪勢なマンションへの尻込みが、別の緊張へシフトして、心臓の鼓動がバクバクと激しさを増す……
家に来ないか、とは『そういうこと』だ。
さすがに、これから何が起こるか分からないほど僕はウブじゃない。
心配事といえば、ひとつ――入るか? と、いうことだけだ。
僕は恐る恐る後穴に指を這わせた。
せっかく手に入れたチャンスなのに、失敗したくない。何度も自身で慰めたことはあるから不可能ではないだろうが……この場合、事前に自分で解しておくのが正解なんだろうか。
変に時間がかかって面倒がられたら嫌だし。
「洞谷。タオル持ってきたぞ」
扉の外から聞こえた声に、僕は慌てて手を引っ込めた。
「あっ、ありがとうございます……! 適当に置いておいてください!」
首だけ巡らせて扉に向かって声を張り上げる。すると何故か浴室の扉が開いた。
「……って、何してるんですか!?」
眼鏡を外してぼやぼやした視界に、タオルを腰に巻いた姿の類さんが立っている。
「洗ってやるよ」
彼は楽しげにそう言うと、浴室に入ってきた。
「いや、いやいやいや、自分で出来ますから!」
「でも、もう脱いじまったし。遠慮すんなって」
そう言って、ケラケラ笑う。
遠慮じゃないです……
そうか細く呟きつつ、僕は股間を両手で隠し身を縮こまらせた。
類さんは気にせず、持ってきたタオルにボディーソープを垂らして泡立て始める。
「綺麗な背中だな」
「あ……りがとうございます……」
類さんが僕の背にタオルを押し付ける。
首筋、肩、肩甲骨の辺り、と丁寧に洗ってくれる。
「脇洗うから、腕上げろ」
「はい……」
僕はさりげなく足を閉じて前傾姿勢になった。
まだキスすらしていないのに隆起してしまっている。恥ずかしいことこの上ない。
「次は前」
「い、いえ、それはさすがに……」
「なんで?」
耳元で囁かれて、僕は身体を強張らせた。
すると泡でぬるついた脇腹に類さんの手が触れた。
「ぁ……」
その手は腹筋をくすぐるようにして下降すると、恥骨を撫で、やがて足の間に到達した。
「ここ、こうなってるのバレたら……恥ずかしい?」
ツツ、と双球を指先が突き、血管の浮き上がった裏筋をなぞられる。
「や、類さっ……」
手を払おうとすれば、逆に掴まれ、後ろに導かれた。
彼は僕の背に体を密着させると、ソコを握らせてくる。
「あ……」
「あんただけじゃねぇよ。ほら……俺もバッキバキ」
彼の中心もまた、僕のと同じように熱く反り立っていた。
興奮しているのは自分だけじゃないと知って、胸の鼓動が跳ねる。
「前向いて。……伝」
ねっとりと、情熱的に類さんが僕の名前を呼んだ。
「なんで、名前……」
「あんたも俺のこと名前で呼ぶだろ……?」
「それは、だって……」
イサミさんの呼び方に引きずられていただけだ。
でも、それを告げたって、彼が僕のことを名前で呼ぶのを止める理由にはならない。
「伝」
「っ……」
ちゅっ、と耳朶に口付けられる。
続いてザラついた舌が耳穴をくすぐった。
「んっ、んんっ、類さ……ぁ……」
「耳、弱いんだ……?」
「そんなこと……」
口籠もっていると、類さんの方へ身体を向けられた。
「はは。顔真っ赤だな。可愛い」
「……洗うだけって言ったじゃないですか」
視線を落として言えば、頬を両手で包み込まれ上向かせられる。
「ご馳走前にして、味見するなって方が無理」
荒い呼吸が重なり合うほど近くに、彼の整った顔があった。
自然と唇が開いて瞼が落ちる。
唇が重なった。
薄くて冷たい感触……触れるだけのキスをして、類さんの顔が離れる。
初めてのキスは、夢見るようにとびきり優しい。
僕は薄目を開け、再び目を閉じた。
角度を変えて、もう一度。続いて貪るような口付けが仕掛けられる。
「んむっ、ぅ……!」
舌と舌を擦り合わせ、絡みとられたそれを唇で扱かれた。
今まで味わったことのない心地良さに、反射的に身を引きそうになるも、頬をがっちりと両手で包まれ、逆に口中深くを暴かれる。
「はっ、ぁ、んンッ、ふぁ……類しゃ……」
吐息を奪われ、お腹の奥がズクズクした。
性的な興奮は最高潮に達し、目眩がして立っていられない。
唇が離れて、類さんが僕を支えた。
背中をトントンと優しく撫でて、ちゅ、と頬にキスを落とす。
「……泡、流すぞ」
呼吸が少しだけ落ち着いた頃、類さんが言った。
僕は彼の肩に鼻先を押しつけて首を振った。
「あの……僕も、洗います。背中ください」
「いや、俺はいいよ。軽く流すだけで」
固い声だった。
僕は違和感を覚えて顔を上げる。すると、彼は困ったように笑った。
「店行く前にシャワー浴びたから」
「でも……僕ばっかり……」
「我慢出来ねぇの。……分かるだろ?」
はぐらかすように尾てい骨の辺りを指先でくすぐられる。
我慢できないのは僕も同じで、僅かに脳裏を過った違和感は、甘くくすぐられている間にさっさと消えてしまった。
僕は大人しく泡を流して貰うと浴室を出た。
タオルで濡れた身体を荒々しく拭い合う。
用意して貰った真新しい下着を身につけ、ズボンを履こうとすれば手を引かれた。
僕は慌てて眼鏡だけ掴み、彼についていく。
大理石の床を裸足で歩くペタペタという音。
奥の部屋へ辿り着くと、類さんは電気もつけず僕をベッドに押し倒した。
眼鏡を取り上げられる。
「伝……」
情欲に潤んだ瞳に吸い込まれそうだ。
僕らは夢中になって再びキスをした。