傘とボディランゲージ(1)
僕は肩を落としてビジネスホテルに向かって歩いていた。
湿ったカビの臭いが鼻をつく。
雨は家を出た時よりも、だいぶ落ち着いていた。
……実はついさっき、思い切って行きつけのバーに寄ってみた。
でも類さんはいなかった。
イサミさんの話によると、最近は全く顔を見せていないらしい。
一応、彼が来たら渡して欲しいと電話番号を書いたメモを置いてきたが……連絡がくる確率は低そうだ。
そんなことを考えていた矢先――
ズボンのポケットで携帯が震えて、僕は飛びつくようにして電話に出た。
「はいっ、洞谷です……!」
『やっと繋がった』
胸の高鳴りが、一瞬で凍りつく。
抑揚のない高圧的な声……兄だ。
「ひ、久しぶり、兄さん。元気にして――」
『来週末、仕事で東京に行くことになった。話があるから時間を空けておけ』
「えっ!? ちょ、急にそんなこと言われても困るよ。僕にだって用事がっ」
『用事?』
電話の向こうで、兄は冷ややかに鼻で笑った。
『そんなものがあるなら今すぐ断れ。学生の用など、たかが知れている』
「そんな……」
『詳しい時間が分かったら後でメールする。……いいな。逃げるなよ、伝』
「ま、待ってよ、兄さっ……」
プツリと電話が切れた。
「……本当、相変わらずな人だ」
彼は僕のことを同じ人間と思っていない節がある。親からの期待を一身に背負う優秀な彼からしたら、いい歳をして就職もせず、学生を続けている僕はゴミみたいなものなんだろう。
深い溜息が溢れた。
身体は雨でぐしょぐしょ。
新居は雨漏りをして、兄からは何やら不穏な話があるらしい。
類さんとの繋がりも切れてしまって、
「邪魔だ!」
「……っ」
すれ違い様に突き飛ばされて、僕は水溜りに尻餅をついた。
携帯が手から滑り落ちて、濡れたコンクリートの上を転がる。
……なんかもう、いろいろダメだ。
道行く人が不審な視線を向けてくるのに、僕はすぐには立ち上がれなかった。
いつも後悔ばかりしている。こんな自分が嫌いでたまらない。
でも、どうしたらいい?
変わろうと何度も思った。でも変われなかった。
それってつまりは、自分はそんなこと望んでいないってことじゃないのか。
なら、もう、このままで……
雨が止んだのは、そんな時だ。
ぼんやりと顔を持ち上げると、見覚えのない傘が差し出されている。
「大丈夫か?」
それから、身体をかがめ、心配そうにこちらを覗き込んでくる男と目が合った。
雨で霞むネオンの光に、ワインレッドの髪がキラキラと輝いている。
「類さん」
僕は呆然と彼の名前を呼んだ。
類さんは大きな手を僕に伸ばした。