夏の終わりとハッピーバースデー(1)
「今日の授業はここまで。それじゃあ、みんな寄り道しないで帰れよ」
チャイムと同時に授業を切り上げると、僕はそそくさと講師室に向かった。
今日は類さんの誕生日だ。
塾講師のバイトが終わったらすぐに待ち合わせしているイサミさんのお店に向かえるよう、ここ数日は早めに出勤し、生徒の親御さんに連絡したりした。片付けるべき仕事も残っていないし、ちゃんとプレゼントも持ってきている。準備万端だ。
「すみません、お先に失礼します」
「えっ、もう帰るんですか!?」
カバンを小脇に抱えて講師室を後にしようとすれば、事務員の女性に声を掛けられた。
「ええと……何か?」
手伝って欲しいことがあっても、今日ばかりは無理だ。 恐る恐る振り返ると、もうひとりの事務の方が和やかに付け足した。
「今日みんなでお夕飯食べて帰ろうってお話ししてたんですよ。洞谷先生もどうかな~って」
「すみません、今日は大事な用事がありまして……」
「そうだったんですね。それじゃあ、また今度ご一緒しましょう」
「はい。ありがとうございます」
僕は軽く頭を下げると今度こそ塾を後にした。
□ ■ □
伝が出て行った後、事務の女性ふたりはこっそりと顔を見合わせた。
「……随分と急いで帰ったね。大事な用事って、恋人かな」
「そうかも。最近、洞谷先生変わったもんね。よく笑うようになったっていうか」
「明るくなったよね~」
「相手、どんな子なんだろう。同じ大学かなぁ」
こんな会話が繰り広げられているなど、伝は知るよしもない。
が、最寄り駅に向かって歩く彼は、ひとつくしゃみをこぼした。
* * *
夏期講習も大詰めでバイトはなかなかハードだったが、僕はちっとも疲れを感じていなかった。
プレゼントは何をあげようかな、とか。
食事はどうしようか、とか。
みんなと話すのも楽しかったし、類さんのことを考えてお店を眺めるのも幸せだった。
今夜はその集大成だ。
お店はイサミさんのところの一部スペースを、予約した。
食事は類さんの好きなお店のハンバーガーを持ち込み、ケーキはソウさんとニャン太さんの手作り。プレゼントはそれぞれが用意する。
このプレゼントというのが、厄介だった。
考えるのは楽しかったのだが、いざ買う段階になるとなかなか決まらない。
オシャレセンスが皆無な僕が服や靴を買うのは無理だった。
ピアスも考えたが、類さんはいつも決まったものを付けているから断念。彼が欲しがっている本……は、全て経費で買っているようだし、そもそも類さんは欲しいと思ったら悩まず即座に購入してしまう。(前にニャン太さんのことを窘めていたけれど、類さんも大概だった)
……そういうわけで、僕は結局、普段使い出来る無難なものをプレゼントに買った。
ちょっとみんなの前で取り出すのが恥ずかしい。
などと考えつつ、僕は駅を出た。
夜の新宿は人でごった返していた。土曜日だから尚更だろう。
待ち合わせをする男女、サラリーマン、夜職のきらびやかな姿の人……
セミの声の代わりに、大型ビジョンから賑やかな広告が流れてくる。
と、横切ろうとした喫煙所スペースから見覚えのある背中が出てきて、僕は思わず声をかけていた。
「あれ? 帝人さん?」
ゆっくりと振り返った彼は、目を瞬かせた。
「やぁ、早いね。時間までまだ結構あると思うけど」
「僕はハンバーガーを取りに行ってから向かうので」
帝人さんと並んで歩く。
彼はいつもの柔和な笑みを浮かべて、頷いた。
「ああ、そっか。そうだったね。……なら、俺も一緒に行こうかな。ひとりで持つの大変な量でしょ?」
「いいんですか? 何か用事があったんじゃ……」
帝人さんはそもそも会に遅れるかも、という話だったはずだ。
すると彼は小さく肩を竦めて見せた。
「ないよ。定時であがれるかちょっと心配で遅れるかもって言っといたんだ。でも、今日、恋人の誕生日なんですって話したら『さっさと帰れー』って追い出されちゃって。もうプレゼントも買ってたし、やることなかったんだよね」
「そうだったんですね。じゃあ、お言葉に甘えます」
「うん」
少しの間、沈黙が落ちる。
と、鼻先を微かに苦い香りがくすぐった。タバコの匂いだ。
意外だな、と思う。
なんとなく帝人さんとタバコが結びつかなかったから。
「……あの、さ」
と、帝人さんが少し気まずそうに口を開いた。
「はい?」
「タバコ吸ってたこと、みんなには秘密にして貰えないかな」
「それは構いませんが……」
「ありがとう。助かるよ」
どうして秘密なんだろう。
ニャン太さんは水タバコ屋さんだし、隠す必要はないと思うのだが。
紙タバコと水タバコじゃ、彼らの中で何か違うのか……?
不思議に思っていると、帝人さんはまるで僕の心を読んだように続けた。
「……実は禁煙してたんだよ。けど今日は魔が差しちゃって。ニャン太にバレたら怒られちゃうんだ」
「なるほど……?」
帝人さんはヘビースモーカーらしい。
職場は救急外来らしくストレスが凄い、という話を聞いて納得した。確かに、毎日生き死にの現場に立ち会うなんて想像するだけで怖い。
そんな話をしているうちに、僕らはハンバーガー屋さんに辿り付いていた。