勝手と勝手(6)
「っあー……今のは効いた……」
頬を抑えて、類さんが苦笑いをこぼす。
「る、類さん! だ、だ、大丈夫ですか!?」
慌てる僕に彼は大丈夫だと手を振ると、立ち尽くす兄に向き直った。
それから髪をかき上げ、言葉を探しながら口を開く。
「あの、お兄さん……実際のとこ、伝がどんな気持ちで進学したか俺は知らないすけど……本人はすげぇ一生懸命やってると思いますよ。寝る間も惜しんで勉強して、バイトもして……そりゃ、お兄さんの言う通り、伝に幼い部分がないとは言わないけど。でも……少しは認めてやってもいいんじゃないすか」
兄は叩いた手のひらを見つめると、鼻に皺を寄せた。
「そうやって耳障りのいいことを言って、伝の気を引いているのか」
「そんな言い方……っ!」
思わず声を荒げれば、兄はいつもの調子を取り戻したかのようにせせら笑った。
「伝は騙せても俺は騙されないぞ」
「本心っすよ、全部。俺は伝に嘘はつかないです」
「フン。お前のような男の言葉をどうして信じられる?」
「……兄さんが類さんの何を知ってるんだよ」
ふつふつと怒りが込み上げてくる。
類さんはこんな僕のことを認めてくれた。
それまで僕は何をしてもダメで、自分のことが好きじゃなくて、いつも人目を気にして身体を丸めて生きてきた。
彼が僕を好きだと言ってくれて初めて、僕は僕のまま生きてもいいんだって思えた。
少しだけ自分のことを好きだと思えてきた。息をするのが、楽になった。
僕は握った手を太腿に押し付けた。
彼は僕にとって掛け替えのない人だ。好きという感情を越えた存在だ。それを。 「何も知らないくせに、酷いこと言わないでよ」
真っ向から兄を睨み付け声を絞り出す。 と、
「じゃあ、聞くが……お前はこの男のことを知っているのか?」
「当たり前だろ。知ってるよ。……一緒に暮らしてるんだから」
たった2ヶ月だけど、僕は彼についてたくさんのことを知った。
類さんは頭が良くて、優しい。頼りになって、思い切りが良い。優雅な仕草には大人の魅力がある。でも、ふとした時に何処か少年のように危なっかしい。
彼は甘いものと肉が好きだ。ファストフードも好きだ。野菜や電車、人混みが苦手。それから甘えるのが上手で……
「どうせ、お前の『知っている』は表面的なものばかりだろう」
「そんなことないよ」
「どういう生まれで、どういう育ち方をしてきた男なのか言えるのか?」
僕は一瞬言葉に詰まった。でも、すぐに応えた。
「生まれや育ちに何の関係があるっていうの。僕は今の彼が好きなんだ。過去なんてどうだっていいでしょ」
「そいつを象っているものを何ひとつ把握もせずに、よく知っているだなどとのたまえたな。それで、好きだと? 過去はどうでもいいだと? お前は本当に……浅い」
「……っ」
「言っただろう? お前のそれは、恋に恋しているだけだと」
今度こそ、僕は押し黙った。
面倒だからじゃない。図星を刺されたと思ったからだった。
僕は視線を足元に落とした。
兄は静かに僕の言葉を待っている。
何か、言わなきゃ。言い返さなくちゃ。
このままだと好きだという感情すら否定されてしまう。
「あの、ちょっといいっすか」
沈黙を破ったのは、類さんの軽い声だった。
「俺がどんな男だとしても、伝が頑張ってるってことは変わらないですよ。まあ、お兄さんが俺のこと信じられないっていうのもわかります。だから……うちに遊びに来たらどうでしょう」
「る、類さん!?」
「貴様……ふざけているのか」
「や、結構ホンキです。お兄さんは伝がちゃんとやってるか心配なんでしょ? こんな風にやったやってないって話すより、数日様子を見た方が確実だと思うんすよ。百聞は一見にしかずって言うし」
「見るまでもない」
「そこを何とか」
「……もういい。これ以上、話すことはない」
兄は鷹揚に吐き捨てると勝手に話を切り上げてしまった。
「とにかく――伝。貴重な人生を浪費しないためにも実家に帰ってこい。お前はひとりじゃ何も決められないんだ。いいか、大学もその男との恋愛ごっこも全て無駄だ」
「いつもいつも決めつけないでよ!」
悲痛な叫びは無視された。
兄はツと目を細めて僕を見やると踵を返す。
「悪いけど……俺は伝と別れる気はないですから」
と、その背に類さんが言った。
「……なに? 勝手なことを言うな」
苛立たしげに兄が振り返る。
「確かに、俺の勝手なんだけど……俺からすると、お兄さんも結構勝手だし」
「なんだと?」
「急に別れろって勝手っすよね?」
彼は僕の視線を遮るように前に一歩踏み出した。
「俺は伝を手放したくない。でも、お兄さんは伝に帰ってきて欲しい。これ、もう一生平行線ですよ。こうなったらもう伝が選ぶしかないじゃないすか」
彼は一度言葉を句切ってから兄の様子を伺い、気軽な様子で続けた。
「俺も勝手言って、お兄さんも勝手言って、伝も勝手言うならちょうどいい。みんな勝手で俺たち似たもの同士ってことで」
「貴様と一緒にするな」
兄は厳しい眼差しを類さんに向けた。
僕は詰めていた息を吐きだした。
プレッシャーを感じなくなったことで、昂ぶっていた感情が次第に落ち着いてくる。
オーバーヒートしていた思考が戻ってくる。
類さんが僕を振り返った。
次いで背中を優しく撫でると口を開いた。
「それで、伝はどうする? っつーか、どうしたい? 実家に帰るっつーなら俺は否定しねぇよ。お前が選んだことを尊重したい。でも、兄さんがあんたがどうするかを決めるなら、俺は絶対に認められねぇよ」
そう言って、力強い笑みを浮かべる。
僕はゆっくりと深呼吸をした。続いて、兄の方を向き視線を落とした。
「……逃げたことは……否定しないよ。家族に心配かけてるのもわかってる。それは……本当に、ごめん。ごめんなさい。でも、今の僕は前とは違う……と思うんだ」
いつ怒鳴られるかとビクビクしたが、兄は不思議と言葉を挟んできたりはしなかった。
「実家に戻るのが嫌なんじゃないよ。僕は、類さんの傍にいたい。そのためなら、なんだってできる気がする。兄さんには伝わらないかもしれないけど……僕はずっと自分が嫌いで……情けなくて……兄さんが言う通り、自分は何をやってもダメだと思ってた」
顔を持ち上げる。
兄の眼差しを見詰め返す。
「でも、今……やっと、自分のこと好きになれそうなんだ。頑張れると思ったんだ」
少し前まで、頑張ったって無駄だと信じていた。
ぼんやりと生きて、それでおしまいな残念な人生。かろうじて生きてはいたけれど、何にもなかった。目の前のことを愚直にこなして、そういう毎日が死ぬまで続くんだと思っていた。
兄が指摘しているのは、僕のそういう部分だろう。
でも、今はちょっと違う。と、思うんだ。
類さんと出会って……ニャン太さんやソウさん、帝人さんと関わるようになって、毎日が鮮やかに色付いた。こんなに世界はいろんな顔を持っているのかと驚いた。
僕はまだまだダメだ。自覚はしてる。努力も足りないし、兄の言う通り怠惰な人間だ。
でも、こんな僕を受け入れてくれる人がいる。だから、もしかしたら僕の中にもまだ輝く何かがあるんじゃないかって思う。頑張ったら、ダメじゃない未来もあるのかもしれないと……
何より僕は今、生きてて毎日が楽しい。
「今すぐ兄さんを納得させるのは、ムリかもしれない。でも必ず兄さんを……父さんも母さんも納得させられる形にするから。だからお願いします。卒業まで時間をください」
頭を下げると、兄はすかさず問うた。
「できなかったらどうするんだ?」
「できなかったら……実家に戻ってきます」
僕は応えた。
できないということは、類さんたちのことを裏切ることでもある。そんな適当な気持ちで彼らと関わり続けたくはない。
ピリリと張り詰めた沈黙。
やがて、兄は肺の中が空っぽになるような溜息をついた。
「……俺も大概お前に甘いな」
誰にともなく呟いて、彼は続けた。
「わかった。約束は必ず守れよ」
「うん……」
「俺からの話はこれで終わりだ。部屋に戻っていいぞ」
額を抑えて、兄はうんざりしたように言った。
僕は類さんを促し仏間を後にしようとして……途中で歩みを止めた。
今夜中に帰ろうと思ったのだ。
なんとなく居心地が悪いし、明日、兄と顔を合わせたらギクシャクするだろう。それに気付いて母が心配するかもしれない。
けれどそう告げようとした瞬間、兄に先を越されてしまった。
「今から帰るだなんて言うなよ」
「え……」
「明日帰るという話でここにいるんだ。明日までちゃんといろ。……そういうところが子供だと言っている」
隣で類さんが小さく噴き出した。それから兄を肯定するように僕の肩を軽く叩いた。
「……わ、わかったよ」
ちょっと恥ずかしく思いながら、僕は頷いた。
* * *
翌日。
親族での会食に続いて墓参りを終えると、僕らは母の車で最寄り駅に送って貰った。
兄は初日と同じように何故か助手席に乗ってきて、始終不機嫌そうに眉を寄せ押し黙っていた。
相変わらず最寄り駅には人影がなかった。
空には西日がとろけ、鮮やかなさび色が広がっている。
「お兄さん。今度、フツーに遊びにきてくださいよ」
車から降りると、類さんが言った。
「行かん。というか、その『お兄さん』と言うのをやめろ」
「え、でもこれが一番しっくりきますし」
「俺は貴様の兄ではないと何度言えば……っ!」
……なんとなくふたりとも仲良くなっている気がする。
類さんの凄さを改めて感じていると、母が助手席の方に身を乗り出して口を開いた。
「伝。ひとりで頑張り過ぎないでね」
「うん。……母さん、いつも心配かけてごめんね」
「まったくだ」と兄。
「あなたが思ってるより、心配していないわよ。伝なら大丈夫って信じてるから」
兄が嘆息する。
僕は気恥ずかしさを覚えて、あいまいに笑った。
「それじゃあ、行くね。ご飯、凄く美味しかったよ」
「ごちそうさまでした。また来ます」
「来なくていい」
兄の声と重なるようにして、
「類くん」
と、母が彼を呼び止めた。
「はい?」
「伝のことよろしくね」
類さんは目を瞬いた。
それから、フッと表情を綻ばせる。
「……こちらこそ」
僕らは改札をくぐると、ホームに降り立った。
景色が夕日に照らされて、オレンジ色に染まっている。
「なあ、伝。あんたのお母さん……」
類さんが口を開いた。その時、ちょうど電車がホームに滑り込んでくる。
「はい?」
小首を傾げれば、類さんは小さく首を振った。
「……いや、なんでもねぇよ」
クーラーの冷風が頬を撫でる。
電車の扉がしまって、セミの声が遠ざかった。
僕らは、帰りのお弁当は何を食べるかなんて他愛もない話をしながら、帰路についたのだった。
step.14「勝手と勝手」 おしまい