スパイスと引力(2)
* * *
キャンパスを出ると、類さんは迷うことなく近くのインドカレー屋さんに入った。
店は雑居ビルの2階にあって、座席数は10人に足りるかどうかのこじんまりとした場所だ。
僕らが扉を開けると、ガラス張りの厨房の中で談笑していたお店の人たちがこちらを見た。
適当な席にテーブルを挟んで向かい合わせに座れば、ネパール人の店員さんがおしぼりと水を持ってきてくれる。
「ここ旨いんだよな」
類さんはおしぼりで手を拭いながら言った。
「知ってます」
「はは、だよな。ここら辺で食う場所と行ったら、ここか、裏のタイ料理屋か、道沿いのうどん屋かカツ丼屋って決まってる」
分かる、と僕は内心で頷いた。
ここ数年、お金に余裕がある時はその4軒をローテーションで食べているのだ。
水で喉を潤してから、僕は訝しげに類さんを見つめた。
「どうしてそんなに詳しいんですか?」
「卒業生だから」
「え……」
『先生』と呼ばれていたことも考えると、やはり彼はうちの大学で講師をしているのだろうか?
しかし講師にしては若過ぎると思う。僕とそれほど年は変わらない……いや、もしかして見た目よりもずっと年上なのだろうか?
でも、先生にサインを求めたりはしないだろうし。うーん……
「洞谷。注文決まった?」
「え、ええ。いつも食べるのは決まってますから」
「オーケー」と頷いてから、類さんは片手を上げて店員さんを呼んだ。
「すいませーん、注文お願いしまーす」
「何食ベル決マッタ?」
店員さんが気さくな、片言の日本語で注文を尋ねてくる。
「俺はDセット。カレーはマトンカレー。あ、ナンはチーズナンに変更で」
「僕も同じセットの、ホウレンソウカレーでお願いします」
「辛サドウスル?」
「俺は極甘」
「……僕も同じで」
店員さんが去ると、類さんは椅子の背もたれによりかかり、楽しげに僕を見た。
「あんたも甘いカレー好きなんだ?」
「辛いと食べ終わるのに時間がかかりますから」
「ははっ、そういう観点で選んだことはなかったな」
僕には、彼と何を話すべきなのかさっぱりわからない。いや、別段話す必要はないのだが、なんとなく気まずい。
一方、類さんは気にした素振りなく続けた。
「そいや、洞谷は何の研究してんの? 院生なんだろ?」
「……思想宗教系です」
「へえ。寺とか神社とか、そういう家柄?」
「違いますよ」
「じゃあなんでわざわざそんな勉強してんの」
ひたすら足の間で組んだ手を見つめて答えていた僕は、入学したての頃を思い出して苦笑をこぼした。
「……本当は、柳田国男が好きなんです」
「それって遠野物語書いた人だっけ」
「ええ。でも、入学したての頃、第1志望だった民俗学のコースに抽選で落ちてしまって……それで、仕方なく思想系に。近いと思ったんですよ。……全然違いましたけど」
顔を上げて、肩をすくめて見せる。
すると類さんは器用に片眉を持ち上げた。
「それでハマッたんだ。進学するってよっぽどだよな」
修士へ進んだことに、能動的な理由はない。
しばらく黙り込んでから、僕は先ほどの会話には首肯も否定もせず無理やり話を変えた。
「……あの、類さんって何者なんですか。さっき先生って呼ばれてましたけど」
「うん?」
「あなたはうちの大学の先生……だったんですか?」
問うと類さんは口元に手を当てて、少し考えるようにした。
「いいや。でも、まあ……当たらずも遠からずってとこかな」
「なんですかそれ」
「もしかして俺に興味持った?」
類さんが身を乗り出してくる。
僕は慌てて顔を背けた。
「そ、そういうわけじゃっ……ないです……」
その時、タイミングよくカレーがテーブルに運ばれてきた。
類さんはそれ以上、追求してくることはなかったから、僕は内心、胸を撫で下ろして手を合わせた。
「いただきます」
大きなナンをちぎり、カレーをつけて口の中に放る。
対面の類さんのチーズナンは厚みがあって、ちぎると中からチーズが垂れた。
それを「あつっ」と繰り返し呟きながら、類さんは一口大に分けていく。
なんでもないことなのに、とても楽しそうだ。
「ここのナン、デカいよな。しかも普通のナンは1回無料でおかわり出来るっつーんだもん、学生の頃は重宝したもんだ。
ま、今は社会人だから贅沢にチーズの頼むけど」
大きい口を開けて頬張り、彼は口の端についたカレーを舐め取った。ついでに指先についた油も舐めた。
類さんの一挙手一投足には華があって、まるで銀幕のスターのように感じていたのに、彼の食べ方は子供みたいだ。
サラダも僕に押し付けてきたりして、そのちぐはぐなところがまた、愛嬌があると思った。
「なんだよ、チーズナンも食べてぇの?」
「いえ、そんなことは……」
「学生が遠慮するなよ。ほら、食え食え」
大きめにちぎったナンを、類さんは僕の皿の上に乗せてくれる。
「……ありがとうございます」
ニコニコと類さんが僕を見つめている。
渋々、口の中に放れば、濃厚なチーズの味が舌の上で蕩けた。
「あ、美味しい……」
「だろ? チーズ、とろっとろ。
まあ、毎日食ってたらカロリーヤバそうだけど」
「そうですね……」
またしばらく、無言の食事の時間が挟まって、
「あ、なあ。話変わるんだけどさ、」と、類さんがまた口を開いた。
「思想宗教勉強してるってことは、ああいうの見て、何が描かれてるかすぐ分かったりすんの?」
指先を舐めながら、類さんが壁に掛かっているタペストリーを指し示す。
そこには、生首を持ち、男を踏みつける複数の腕を持った青い肌の女神が描かれていた。
「インドは専門外ですけど……少しだけなら」
「さすが。それで、あれってなんの絵? 神様なんだろうけど……随分と物騒だよな」
「あれはカーリー神だと思います。シヴァ神の奥さんで、破壊を司る女神ですね。ヒンドゥー教では破壊あってこその創世という考えが強く支持されていて……カーリー神は、向こうではポピュラーな神様なんですよ。変革とか、勝負事のご利益があったかと思います」
「なるほどなー。で、あの踏みつけられてるのは誰?」
「シヴァ神です」
「え、旦那踏みつけてんの? なんで?」
「それは……」
知識の紐を解きかけた僕は、はたとして類さんに目を向けた。
「あの、長くなっちゃいますけど平気ですか?」
さっきからベラベラと僕だけ話している。
もしかしたら、類さんは退屈しているかもしれない――そう思ったのだ。けれど。
「おう。聞かせて聞かせて」
目を輝かせて、彼は頷いた。
僕は躊躇いがちに、出来るだけ簡単にかい摘まんで話を続けた。……と言っても、かなり長くなってしまったが。
しかし類さんはひとつもつまらなそうな顔はせず、最後まで興味津々に僕の話を聞いてくれた。
* * *
その日の夜。
塾のアルバイトから帰る電車の中で、僕はスマートフォン片手に悩ましい溜息をついた。
さっきから、検索バーに「頼」と入力し、消すを繰り返している。
SNSでも出てきたら類さんが何者か分かる。『先生』と呼ばれるくらいだから、大学のシラバスにも引っかかるかもしれない。
でも調べてしまったら、もう興味がないとは言い張れない……いや、もう手遅れか。
僕は眉間に寄った皺を指先で揉んでから、緊張しつつ『頼久類』とフリックした。
すると……検索の1番上に出てきたのはネット辞典だ。要約を目にした僕は、えっと小さく声を漏らした。
「頼久、類……小説家……ッ!?」
言われてみれば、名前を聞いたことがあるような、ないような……
詳細ページに飛べば、彼の簡素な経歴と何かの式典の折の写真が出てきた。
黒いタキシードに身を包み微笑む彼は、まさしく僕の知る類さんだ。
「アメリカで作家デビューしてるんだ。……わ、すご、映画化もしてる……」
大学のシラバスにも彼の名前を見つけることが出来た。
それによると1週間だけ現代文学の授業の客員講師として呼ばれているらしい。
なるほど、確かに「当たらずも遠からず」だ。
「……なんか凄い人なんだな」
そんな人がどうして僕に構うのかさっぱりわからない。
でも、彼との食事は……とても楽しかった、と思う。
翌日、僕は彼の本を買って読んでみた。
数ある中で手にしたのは、詐欺師の女性と物理学者の、コミカルな恋愛ものだった。
明るい彼の人柄が透けて見える優しい作品だと思った。
けれど、その感想を彼に語ることは出来なかった。
再び彼とキャンパスですれ違うことはなかったし、つまらない意地を張っているうちにあっという間にひと月過ぎてしまったのだ。
* * *
大学とアルバイトと、アパートの往復生活に戻った僕は、虚ろな気持ちでノートパソコンに向かい、授業で使う資料を用意していた。
部屋には相変わらず段ボールが転がっている。
ちょっと前まではやる気に満ちていて、片付けに取り掛かったりしたものの、今では床が見えるようになるのは不可能なんじゃないかと思い始めている。
今日は朝から大雨だった。
そろそろ深夜を回るというのに、今でも大粒の水滴が窓に当たって音を立てている。
気圧のせいか物理的に身体もダルくて、ナメクジにでもなったようだ。何もしたくないし、塩をかぶって、このまま溶けてしまいたい。
バーに行こうか。と思う。そう考えるのも何度目だろう。
その度に「今更だろ」と理性だか意地だかが却下する。
ああ、どうしてもう行かないなんて彼に言ってしまったんだ。
いや、食事をした時に連絡先を聞くべきだった……
「類さん……」
気がつけば、彼は僕の心の中に棲んでいて、今じゃ大部分を占めていた。
好きな人の冷たい台詞を思い出して落ち込んでいたのが、随分と昔のことのようだ。
「どうしてるかな」
ベッドに寄りかかり、彼のことを想う。
もう彼は次の恋を見つけたのだろうか。
少しでも僕のことを考えてくれていると嬉しい。会いたいと思っていて欲しい……
その時、ふと、上を見上げた僕は、天井に大きな染みが出来ているのに気付いた。
「えっ……」
ゆっくりと膨らんだ水滴が、ポタッとベッドに吸い込まれていく。
「う、嘘だろ?……雨漏りっ!?」
急いでマットレスを持ち上げる。それから、段ボールに足をぶつけながら玄関まで駆けると、放置していたバケツを手に戻り、雨漏りしている天井の下に置いた。
「どうしよう……」
マットレスを敷く場所を確保しなくては眠れない。けれど荷物をどかす気力はない。
ひとまず大家さんに電話をした。修理の手配は週明けになると言われた。
仕方がないので、僕はビジネスホテルに泊まるべくアパートを後にした。
傘はなんの意味もなさず、外に出て数分もしないうちに全身がずぶ濡れになった。
……雨足が弱まりつつあったのが、不幸中の幸いだろうか。