海と月(4)
「類さん……!」
水を蹴り、歩みを進める。
海面が思ったよりも早く胸元まで到達した。
波は穏やかながらも力強く、浴衣とともにまとわりつき足がもつれる。
頭の中は疑問で埋め尽くされていた。
衝撃。困惑。それから、もしも彼を失ってしまったら、という恐怖。
去来する最悪の考えに奥歯が鳴る。
嫌だ。嫌だ。嫌だ――
「類さんっ……類さんっ!!」
声の限りに僕は叫んだ。
「わぶっ……」
口の中に海水が入ってむせた。それでも前に手を伸ばして、彼の影を探す。
水面から顔を出した類さんは、ハッとしたようにこちらを振り向き、目をまん丸に見開いた。
「類さ――」
腕を伸ばしたのと、足元から地面が消えたのは同時だった。
マズい。
前のめりになって、僕は海の中に沈んだ。
手が空しく水を掻く。
苦しい。息ができない。
足場を探さないと。いや、それよりも類さんを……
類さんを……どうするって?
もがきながら冷静なもうひとりの自分が問いかけてきた。
そうだ。なんで僕は飛び込んでいるんだ。
助けを呼ぶべきだった。泳げない僕にできることなんてないというのに。
後悔しても遅い。
意識が遠のいてきた。
僕は……どうして……
どうして、いつも……いつも、いつも……っ!
その時だった。
肺に空気が滑り込んできて、視界に夜空が広がる。――引っ張り上げられたのだ。
「何してんだ、お前……!」
怒ったような、戸惑ったような類さんの声。
抱きかかえられた僕は砂浜につくと膝をついた。
「ゲホッ……ゴホッ……!」
咳き込み、飲み込んだ海水を吐く。
「大丈夫か?」
薄い波が寄せては引いて、手をついた浅瀬に跡を描いた。
僕は何度もえずきながら類さんを見上げた。……彼はどこか他人事のように訝しげに口を開いた。
「あんた……一体、何してんだよ」
「な、なにって……あなたこそ、何してるんですか!!」
緊張が緩んだせいか、涙で視界が歪んだ。
死ぬかと思った。
類さんを失うかと思った。
心臓が壊れたみたいにバクバクいっている。
「なんか、悩みとかあるなら……話してくださいよ! 何のために、恋人が4人もいるんですかっ!?」
「は?」
類さんが目を瞬かせる。
「ぼ、僕は確かに役に立ちませんけど、でも、話くらいなら聞けるしっ、あなたのためなら……なんだってするつもり、ですし……っ、うっ……お願いです、早まらないで……くださっ……」
嗚咽が溢れ、止めどもなく涙がこぼれた。
息を引き攣らせて類さんの足に縋り付き、僕は子供みたいに泣いた。
「伝。……伝、落ち着け」
類さんが僕の肩を優しく掴む。
それを振り払うように、僕は彼の裸足に額を擦り付けた。
「つらいこととかっ、悲しいことがあるなら、僕が……僕が、なんとかっ、ぅ、しますからっ……支えます、からっ……」
「聞けよ、伝。誤解だ」
「誤解? どうしてこの期に及んで隠すんですか。そんなに僕は頼りになりませんかっ……!?」
「や、泳いでただけなんだ」
「……」
僕は押し黙る。
しゃがみ込んだ類さんが、指先で僕の涙を拭った。
ボヤボヤした視界に、申し訳なさそうな彼の顔が映る。
「……ほ、本当に? 本当に泳いでいただけ……?」
唖然とする僕に、彼は頷いた。
確かに、彼は……水着姿だった。
普通に考えれば、上半身裸のサーフパンツでなんて入水はしないだろう。だが、しかし……
僕は唇を引き結ぶと、首を振った。
「う、嘘つかないだくださいよ。こんな夜にひとりで泳ぐなんて……そもそもあなたは、泳げないんじゃなかったんですか?」
「誰からそんなこと聞いた? 俺、泳げるぞ。溺れかけたあんたのこと、ここまで引っ張ってきたし」
僕は無意味に唇をパクパクと動かす。
……本当に?
本当に彼は……泳いでいただけ?
「……どうして昼間に泳がなかったんですか」
「人が多かったからだよ。今回は泳がねぇで帰ろうかとも思ったんだけど、せっかく海まで来たのに勿体ないなって。あとは仕事から解放されたテンションっつーか」
「て、テンション…………」
僕は愕然と類さんを見上げ、ズビビと鼻水をすする。
それから辛うじて顔に引っかかっていた眼鏡を掛け直すと、深く息を吸った。
「ま……紛らわしいことしないでください!!」
「うおっ!?」
唐突に大きな声で叫んだ僕に、類さんが背を仰け反らせる。
僕は荒々しい気持ちのまま続けた。
「そもそも夜にひとりで泳ぐなんでダメでしょう!? もし何かあっても誰も気付けないんですよ!?」
「……そうだな。俺が悪かった。ごめん」
類さんは素直に頭を下げた。
だから渦巻いていた激しい感情が行き場をなくしてしまう。
何か言いたいのに、言うべきなのに、言葉が見つからない。
僕は肩で息をしながら、ただただ泣いた。
涙腺がバカになっていた。
「ほ、本当に心配したんですからね……死んじゃうんじゃないかって……」
両手で顔を覆う。
なんだかもう、何もかもが恥ずかしい。
早とちりしたことも。
感情的になって声を荒げていることも。
ベソベソと子供みたいに泣いていることも。
自分は泳げもしないのに海に飛び込んでしまった浅慮も。
しかも更に格好悪いことに、助けようとした類さんに助けて貰うという体たらく……
「マジで、悪かったよ」
両手をどかされる。
僕は類さんの視線を避けて俯く。
「ごめんな、伝……」
類さんの手が、僕の濡れた髪を撫でた。許しを請うように頬に触れた。
ややあってから、僕はおずおずと顔を持ち上げた。
頬に唇が押し付けられ、舌で涙を拭われる。
ふたりの間に、波の静寂がたゆたっていた。
彼は僕の額に額で触れた。
僕は目を閉じた。
もういいです、謝らないでくださいと告げるみたいに、彼の鼻先に自分の鼻先を擦り付ける。
まだショックから立ち直れないのか、涙は止まる気配がない。 それがまた情けない。
「ホント、ごめん……」
類さんはしつこいくらいに僕の頬に口付けた。
くすぐったい……
僕はされるがまま全てを受け止める。
「ん……」
やがて、唇に唇が触れた。
ついばむようなキス。角度を変えて何度も優しく触れ、気がつけば砂浜に背を引かれるようにして、僕らは重なった。
薄らとした波が寄せては引いていく。
潮声。それから、たくさんの星と白い月。
ポタリと類さんの前髪から水滴が滴り落ちて、僕の頬を滑り落ちていった。
僕は彼の背に手を回した。