ファミリア・ラプソディア

海と月(1)

「夏だ! 海だ! バーベキューだ~~~ッ!」

 予定通り、僕らはみんなで海にやってきた。

 肉の焼ける音、空腹をくすぐる芳しい香り。
 切ってまといたいほどの鮮やかな青空、キラキラ輝く美しい海面。
 ベタつく潮風、それから――揺れる足元。

 僕らは今、船上でバーベキューをしている。

「もっと肉焼け、肉」

「類ちゃん、ハイお野菜♪」

「いらねぇよ! なんでわざわざ野菜よこすんだよ!」

 焼けたそばから肉をさらう類さんの皿に、ニャン太さんがドサッとピーマンやらナスやらを乗せる。

 類さんが野菜をニャン太さんの皿に押しつけようとすれば、彼の口に無理やり野菜が突っ込まれた。
 暮らし始めの頃はギョッとしたそんな光景も、僕の日常に溶け込んできている。
 こうでもしないと類さんは本当に野菜を、欠片も食べないのだから仕方ない。

 僕はトングで肉をひっくり返した。
 そろそろ食べられそうだな……僕はみんなの皿の上を一瞥する。

「ソウ、伝くん。ふたりとも焼いてばかりいないでちゃんと食べなよ」と、帝人さん。

「そうだ。お前も食べろ」

 ソウさんが僕の皿に肉を乗せてくれた。

「ありがとうございます」

 お返しとばかりに、僕も今さっき焼けたそれを彼の皿の上に置く。
 それから自分用に野菜も取り、アツアツの肉を口に放った。

 歯をたてた瞬間、じゅわりと濃厚な肉汁が溢れ出し、目を閉じる。
 舌の上で肉塊がとろけた。

 凄い……美味しい……
 なんだこれ……
 え、本当、なんだこれ…………。

「なんだこれ」が頭の中で渦巻く。

 今まで自分が食べてきた肉は、ゴムか何かだったのだろうかと疑わしくなるくらい、柔らかくて、滑らかで、美味しい。

「お酒足りてます~? まだまだありますからね~」

 そう明るい声で言って運転室から顔を出したのは、行きつけのバーのバーテンダー・イサミさんだ。

 彼は8月中、知人のペンションを手伝い、ついでにダイビングのインストラクターをしている。
 類さんたちは毎年そのペンションを利用していて、その「細やかなお礼に」クルージングを出してくれたのだった。

「イサミさんもどうぞ」

 新しく皿に肉と野菜としいたけを乗せてイサミさんに渡せば、彼は厚いまつ毛をバチバチと鳴らして微笑んだ。

「あっらー、伝ちゃん……や・さ・し・い♪」

「そいえば魚介類も買ってくれば良かったね~。サザエの壷焼きとか、食べたかったなぁ」

「確かに。ハマグリとかもいいよな」

 ニャン太さんの言葉に、類さんがビールの缶を傾けながら頷く。
 それに、イサミさんはドスの聞いた声で反応した。

「わかりました! すぐにとってきますッ!!」

「あれ? 買っててくれたの?」

「いえ、今からちょっと潜ってきますッ!」

「えっ!?」

 僕らが裏返った声を漏らす中、ドタドタと奥に向かったイサミさんはシュノーケルを付けて戻ってきた。
 今にも飛び込みそうな彼を、ニャン太さんが慌てて掴んで止める。

「いやいやいやいやっ、潜ってくるって……!」

「イサミちゃんが潜っちまったら運転どうするつもりだよ?」

「うん。誰も船舶免許持っていないし」

「すぐ戻ってきますから心配いりません!」

 イサミさんはニャン太さんを引きずりながら、船から身を乗り出した。
 それをニャン太さんは必死に食い止める。

「そこまでしなくていいからっ! お店で食べられるしっ!」

「根子さんには鮮度最高のものを食べてもらいたいんでッッ!!」

「だから、いいんだってば!」

「ひぐっ!」

 ニャン太さんが、イサミさんの巨躯を問答無用で船室に投げ込んだ。

「う、わぁっ……!?」

 船が大きく揺れて、僕らは慌てて縁に取りすがる。
 バーベキューの台は固定してあったお陰で何個かしいたけが落ちた程度で済んだ。
 しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間……

「ニャン太……どうするの、これから」

「ごめんごめん。こうでもしないとイサミちゃん潜っちゃうからさ」

「……潜ってもらった方が良かったんじゃねぇか」

 僕らは床で目を回すイサミさんに途方にくれた。
 と、そんなやり取りを完全無視して、ソウさんが立ち上がった。

「後は任せろ、イサミ」

 いつの間に準備したのか、彼は手に釣り竿を持っている。

「サザエは俺が釣る」

 言って、彼は鋭い眼差しを海に向けた。
 ややあってから、類さんが口を開いた。

「格好いいこと言ってるけど、貝は釣れねぇからな……」

 サザエの壺焼きは次回食べることにして、僕らはイサミさんが目を覚ますのをお肉を食べたりして待ったのだった……。

* * *

 クルージングを終え、ペンションで食後休みを取ってから、ニャン太さんとソウさん、帝人さんの3人は、サーフボードを片手に海に入っていった。
 僕はといえば、砂浜に設置したビーチテントで類さんとお留守番だ。

 日は西に落ちつつあり、ちらほらと帰り支度をする海水浴客の姿が増えてきた。

「……類さんはサーフィンしないんですか?」

 尋ねれば、彼はコンビニで買ったブロックアイスを噛み砕きながら頷いた。

「うん。あんたこそ、せっかく海に来たのに泳がねぇの?」

「実は……泳げなくて」

 僕は膝を抱えると、気恥ずかしげに告げた。
 体育全般的に苦手だが、特に水泳は全く手も足も出ない。そもそも浮かない。

「なら、後で誰かに教わったらいいよ。あいつら、めっちゃ泳げるから」

「はい。時間があったらお願いしてみます」

 僕はチラリと隣の類さんを見やった。

 ネイビーのUVジャケットを羽織り、サングラスをかけている。膝丈のハーフパンツからは、筋肉質な脚が覗く。

「誰かに」なのか。と、僕は思った。
 ということは、類さんも泳げないのか……?

 ちょっと意外だ。
 彼は何でもそつなくこなしそうだったから。

「サーフィンってさ、結構、見てるのも楽しいよな」

「ええ」と頷いて、僕は前方に目を戻す。
 波に乗るニャン太さんの金髪が、小さく見えた。

 沈黙が落ちる。
 僕は裸足の足先を見た。近くをヤドカリが横切っていく。

「……こんなに楽しい夏は初めてです」

 僕はポツリと言った。

 友達に誘われて出掛けることは何度かあったが、いつも顔色ばかり窺っていて楽しむどころじゃなかった。そんな風だから、どんどん声をかけられる数も減って、気がつけば夏の大半はバイトで終わるのが当たり前になっていた。

それが、夏祭りに、海に、バーベキューに……明るく彩られていく。

「そか。そりゃ良かった」

 俯いた僕の髪を、類さんがくしゃりと撫でる。

「夏バテしねぇで、しっかり体力つけとけよ。8月はまだ半分も残ってんだからさ」

「そうですね」

 類さんがサングラスを取った。距離が縮まる。
 僕はビーチテントの影に視線を落とした。

 子供が楽しげな声を上げて、すぐ近くを走って行く。
 唇が近づいた。なんだか悪いことをしているようで、ドキドキする。

 ――と、携帯の着信音が響いて、僕は類さんから慌てて距離を取った。

「す、すみませんっ……」

 鞄から携帯を取り出し、ディスプレイに出た名前にげんなりする。

「……電話? 出なくていいのか?」

「はい」

 着信が終わるのを待って、電源を落とし鞄に戻す。

「……実家から?」

「そうです。盆に帰ってこいってしつこくて」

 正確には兄からだった。
 引越したことに気付き説明を求めるメッセージがうんざりするほど来ていたが、最近はさらに盆に顔を見せろという内容も加わっていた。

「あんま帰りたくないんだ?」

 類さんの問いに、僕はあいまいに笑う。

「なら、帰らなきゃいいのに」

「そうできたらいいんですけどね……」

 帰りたくない。でも結局のところ僕は毎年、帰っている。
 イヤだイヤだと言いながらも、突っぱねる強さはないのだ。
 そんな自分にもうんざりする。

「……じゃあさ、俺、一緒に行こうか?」

「え?」

 思わぬ申し出に、僕は目を瞬いた。

「伝の家族、見てみたい」

 ニッと口角を持ち上げる。
 僕はブンブンと顔を左右に振った。

「い、いやいやいやいや、ダメです。絶対ダメです!」

「なんで?」

 小首を傾げる類さん。
 僕は背を丸めるともごもごと言葉を探した。

「ぼ、僕の実家……凄く田舎なんですよ。だから、ちょっと考えが偏ってるっていうか……」

「ははっ、馬鹿正直に恋人です、なんて言わねぇよ。安心しろって」

「……嫌な気持ちにさせてしまうかもしれませんし」

「なおさら俺も行った方がいいじゃん」

 正直なところ、かなり魅力的な申し出だった。

 一人で帰るのは怖い。
 特に兄にゲイだとカミングアウトした後だから、余計に。

 もしかしたら父にも話がいっていて、酷く怒られるかもしれない。
 だが、類さんが傍にいてくれたらちゃんと自分の考えを伝えられるかも。
 いや、でも、家のことに彼を巻き込むのは良くないだろう……
 家族の偏屈な面を見せて、幻滅されるのもイヤだ。でも、やっぱり怖い……

「類さん……」

 僕は掠れ声で名前を呼ぶと、唇を引き結んだ。

 兄とのこと、家のこと……類さんに、話してもいいのだろうか。
 依存することにはならないだろうか。

「ありがとう、ございます……母に、友達も連れていっていいか訊いてみます」

 悩んだ末、僕はそう言った。

「おう」と、類さんは嬉しそうに笑った。

 そういえば、友達……を、家に呼ぶのなんて初めてのことだ。
 みんな、びっくりするに違いない。
 そして兄は……彼が僕の恋人だと気付くだろう。

 僕は拳を握りしめた。手のひらにイヤな汗が滲む。
 そっとその手に、類さんのそれが重なった。
 強張った心が優しく解れていく。

 僕たちは今度こそ、触れるだけのキスをした。

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