ファミリア・ラプソディア

ピアノと酔っ払い(9)

 僕らは浴衣の袖をたすき掛けして、設営準備に臨んだ。

「ねえ、ホントに今日って降水確率ゼロだよね? ねぇ、聞いてんのニャン太」

 ライトやガイドポール、パイプ椅子を設置するニャン太さんに、お姉さんが落ち着きなく問い掛ける。彼女は広場に設置されたグランドピアノを前に、しきりに天気予報を確認していた。

「最初から外でやるつもりだったでしょ。今更何言ってるのさ。覚悟決めなって」

 うんざりしたようにニャン太さんが応える。

「覚悟って何をよ。不吉なこと言うのやめてくんない?……ってかさ、やっぱもう少し飲食スペースからピアノ離すべきだったんじゃないかな。焼きそばぶっかけられたりしたら、どうしよう」

「どうやったら、この距離でそんなことになるの」

「思いっきり投げ込んでくるヤツがいるかもしれないじゃん」

「焼きそばを? それ、もう事件だよ……」

 オジサンが貸してくれたグランドピアノは、ちょっと凄いものらしかった。
 ベ、ベヒ……ええと、名前は忘れてしまったが、ドイツのブランドものらしい。きっと小学校とかにあるピアノよりも高いのだろう。

「全員、ここ整列して!」

 設営の準備が終わると、お姉さんは生徒たちを呼んだ。

「手、ちゃんと洗ったね? ベトベトしてないね!? 口の中に食べもの入ってないね?……よし」

 ひとりひとり確認して、頷く。
 それから緊張気味の表情に笑みを滲ませた。

「こんな凄いピアノ、なかなか触れないし。思いっきり楽しんでこー!」

 拳を振り上げた彼女に「はーい!」と声が続き、近くのスピーカーから流れていた祭り囃子が消えた。
 ついに開演だ。

 僕は類さんとニャン太さんと、少し離れたところに立った。

「5時からでちょうど良かったかもな」

「そうだね~。だいぶ涼しくなったし」

 と、生徒さんが整列するのを手伝ったりしていた帝人さんがやってきた。

「伝くん、今日はいろいろとありがとね」

「僕は何も。オジサンのお陰ですよ」

「伝くんがピアノ探そうって言ってくれたからだよ。もちろんオジサンは親切だったけど」

 言葉に目を瞬けば、僕の脇腹をニャン太さんが突いた。

「ね? 帝人も同じこと言うでしょ?」

「は、はあ……」

「まだ納得してねぇな」と、類さん。

「すみません……」

 本当に何もしていないから、そんな風に言われても困ってしまう。

 僕はきっかけを作ったかもしれない。しかし、オジサンは誰が頼んだって貸してくれただろうし……人の手配や、テキパキと機材の準備をしたのは類さんとニャン太さんだ。
 むしろおたおたと指示を待ったり、照明の配線を間違えたりした僕は、邪魔ですらあった。

「……ガチで、あの計画を実行しねぇとダメだな、こりゃ」

 類さんがニヤリと悪い笑みを浮かべる。

「け、計画? なんの計画ですか?」

「ズバリ、自己評価天元突破計画」

 帝人さんが噴き出す。
 僕は自分の身体を抱きしめるようにした。

「け、結構です……」

 もう少し自信は欲しいとは思う。が、自己評価が天元突破までしてしまったら、それはそれで困ったことになる気がする……。

 そんな話をしていると、突然、黒い小さな影がふたつ、ニャン太さんに勢いよく突撃してきた。

「おわっ!?」

「ニャンにーにっ!!」

 影は4、5歳の男の子だった。
 彼らはニコニコしながら、ニャン太さんによじ登り始める。

 それを見て、類さんが言った。

「……ばっちりなタイミングだったな」

「「たいみんぐ?」」と男の子たちがハモる。ニャン太さんは彼らを軽々と抱き上げると、補足するように告げた。

「これからママの生徒たちがピアノ弾くんだよ」

 どうやらお姉さんの息子たちのようだ。
 声は何度も聞いていたが、顔を見たのは初めてだった。

「「ふぅん……」」

 ふたりはこぼれ落ちそうなほど大きな目で、辺りを見渡してから、僕に視線をとめた。
 じっと見詰めてくる瞳があまりに澄んでいて、僕はたじろいだ。

「ええと、この子たちは……」

「あ。デンデン、ユーユーに会うの初めてだった? 姉ちゃんの子で、ユートとユータ。だから、ふたり合わせてユーユー」

「なるほど」と頷いて、僕はニコリと笑った。

「こんにちは、ユートくん。ユータくん」

 声をかけると、彼らはサッとニャン太さんに抱きついて顔を背けてしまう。

「ほら、ユーユー。ちゃんとご挨拶して。類ちゃんの奥さんだよ」

「え……いや、奥さんじゃっ……」

 ない……? いや、奥さん……?
 だが、認めるのもちょっと恥ずかしい……

 ポッと頬が熱くなって焦る。
 そんな僕をふたりはチラリと見てから、またすぐ顔を隠してしまった。

「……ごめんね、人見知りで」

「大丈夫ですよ」

「にしても、なんでコイツら、ガキだけでフラフラしてんだ?」

「近くに母さんがいると思う。ふたりのこと見てるって言ってたし。そのうち、声かけてくるんじゃない?」

 ニャン太さんのお姉さんが教室の紹介を終えた。
 続いて、フリルのついた浴衣を着た女の子が、ピアノの前に出るとペコリと頭を下げる。

 幼少組の演奏が始まった。
 つたなくも可愛らしい音色が微笑ましい。
 演奏に誘われて、ちらほらとアーケードを回り終えた人が、広場に集まってくる。

「あっ!」と、ニャン太さんが焦った声をこぼしたのは、奏者が切り替わるタイミングだった。

「どうした?」

「ヤバ。ソウちゃんのこと忘れてた」

 慌てて携帯を手にする彼に、僕もハッとする。類さんもやらかしたというような顔をして、スマホを取り出した。
 それに帝人さんが小さく苦笑をこぼす。

「ソウは間に合わないってさ。さっき連絡来たよ」

「マジか。良かった……いや、良くねぇか」

「全然、良くない。ソウちゃん、めちゃくちゃ楽しみにしてたんだから」

「でも仕方ないよ。仕事だもの」

 帝人さんは少しだけ寂しそうに頷く。

 やがて辺りが暗くなる頃、会は大詰め――帝人さんの番になった。

 曲目は「真夏の夜の夢」。

 軽快な初めの音が飛び出すと、周囲のざわめきがかき消えた。

 大きな手が鍵盤の上を跳ねる。
 美しい音色が、重い夏の空気を散らしていく。

 僕は息を飲んだ。

 練習で何度となく聞いた音色なのに、ちっとも色褪せない。音はダイレクトに僕の身体に侵入してきて、心を揺さぶり、全身がゾクゾクと震えた。

 ライトアップされたその一画は幻想的ですらあった。
 たくさんの人が足を止めた。
 あっという間に、厚い人垣ができた……

 数分の演奏は一瞬で終わってしまった。

 最後の音が、雑多な夜に吸い込まれていくのを待ってから、帝人さんは椅子から立ち上がった。
 盛大な拍手に笑顔で応えて、彼はピアノを離れる。と、浴衣姿の女性たちがワッと彼に押し寄せた。

「あはは。帝人、モテモテだ」

 困ったように笑いながらも、帝人さんは丁寧に受け答えをしていた。彼のことだから、しっかりと教室の宣伝をしているのだろう。

「さて、と。俺らは片付けの準備するか」

「はい」「ほーい」

 僕とニャン太さんは短く返事をして、再び軍手をはめた。

 ……ふと、僕は帝人さんに目を向けた。正確には、彼の手に、だ。
 帝人さんは手袋をしていなかった。
 結局、どのタイミングで彼が手袋を付けるのかはわからずじまいだった。

 こうして、夏祭りの夜は穏やかに更けていった。

* * *

 後日。
 ニャン太さんのお姉さんから、ゼリーの詰め合わせが届いた。
 どうやら帝人さんの集客力は凄まじかったようで、たくさんの新しい生徒を迎えることができたらしい。

 予想外だったのは、殺到した入会希望者がみんな中高生の男の子だったことだ。

「男の下心ほどやる気につながるもんはねぇからな。そのうち、あの教室から有名なピアニストが出るぞ」

 と言って、類さんは笑った。
 それを帝人さんは、複雑な表情で聞いていた。




step.12「ピアノと酔っ払い」 おしまい

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