ファミリア・ラプソディア

ピアノと酔っ払い(8)

 帝人さんが人差し指を口に当てる。
 それから小声で続けた。

「……小さい生徒さんがカキ氷を鍵盤にこぼしちゃったんだよ」

「マジか」と、類さん。

「開けて拭けばいいんじゃないの?」

 ニャン太さんの素朴な疑問に、帝人さんは首を振った。

「蓋が閉まってたならそれでもいいんだけどね……鍵盤だから。ピアノってさ。内部に紙とか使ってるんだよ。水ならまだしも甘いシロップってなると、すぐに修理に出さないと」

 ピアノの内部に紙が使われているとは知らなかった。ということは、パーツの交換とかが必要になのだろうか。思った以上に事態は深刻だ。

 と、そこへ、ニャン太さんのお姉さんがやってきた。

「帝人くんから事情聞いた?」

「うん。ピアノ、だいぶヤバイんだ?」と、ニャン太さん。

「ヤバイっていうか、うちにはあれしかないからね。発表会は中止」

「えっ……」

 思わず声を漏らした僕に、彼女は肩を竦めた。

「ホント、ごめんね。毎日、大変だったのにさ。帝人くんも……」

「謝らないでください。むしろ俺がここにいれば……」

「何言ってんの。ここの責任者はアタシだから。それこそ、帝人くんが気にすることじゃないよ」

 話を聞くと、練習を終えた後、帝人さんは気分転換にお祭りへ出かけたらしい。そして彼の次に、教室の生徒たちが個別練習をしていて、ニャン太さんのお姉さんが運営の人と話をしていた数分間に事故が起こってしまったとのこと。

「今度、埋め合わせさせてよ。なんか美味しいものでも食べに行くとか」

 ニャン太さんのお姉さんが顔の前で手を合わせる。
 帝人さんは困ったように眉根を下げた。

「気にしなくて大丈夫です。……それより、そろそろこの話は終わりにしませんか?」

 彼は、ちらりと泣いている男の子を振り返った。小学校1、2年生くらいだろうか。たぶんカキ氷をこぼしてしまった生徒だ。その隣には申し訳なさそうに身体を縮こまらせる彼のお母さんの姿もあった。彼女が抱く赤ちゃんが、不安げに視線をさまよわせている。

「せっかくのお祭りだしね」とニャン太さんが言う。

「……そりゃそーだ」

 それにお姉さんも短く嘆息した。

 ピアノが使えなくなってしまった今、長々とこの話をしていても、発表会が出来るわけではない。
 それはわかる。わかるが……僕は何とも言えない気持ちに襲われた。

 カキ氷をこぼした彼の気持ちを思うといたたまれない。
彼の不注意なのだから当たり前だ。とは言っても、彼は十分傷つき反省しているように思う。それに、彼のお母さんだってつらいだろう……

「……でも、このまま発表会ナシにしちまって、あのガキ平気か? だいぶ落ち込んでるみてぇだし……そも、他の生徒だって練習してたんだろ。納得いかないんじゃねぇの」

 類さんが僕の胸の内を代弁してくれた。それにお姉さんは頬を掻いた。

「っつーて、どうしようもないっしょ」

「代わりにやれることとかねぇの?」

「うーん、想定してなかったし……」

 僕は腕組みして黙り込んだお姉さんに、おずおずと尋ねた。

「あの……ピアノって、借りれないんでしょうか?」

「え?」

 視線が集まる。僕はもたつきながら言葉を続けた。

「別のピアノを用意できたら、発表会を中止しなくてもいいのかな、って思ったのですが……」

「レンタルサービスはあるけど、今の今で持ってきてもらうのはムリだよ」と、お姉さん。

「じゃあ、他から借りることは……例えば、生徒さんからとか、この近くに住んでる人とか……」

 お姉さんと帝人さんが目を瞬かせる。
 それから口を開いた。

「それは……無理だと思うな」

「ピアノはカスタネットの貸し借りみたいにはいかないよ。そもそも習ってるからって家にピアノがあるわけじゃないし」

「そういうものですか……」

 こぼしてしまった生徒さんの家にはピアノはないらしい。じゃあ他の生徒さんに相談、というのはハードルが高そうだ。

「まあ、ちょうど皆来てるから聞いてはみるけど期待は出来ないと思うよ」

 僕は改めて奥で泣いている子を見やる。
 誰のせいにするでもなく、唇を一文字に引き結んで、嗚咽をこぼす姿は痛々しい。

 お祭りでテンションが上がっていて、注意散漫になっていたのだろうことは容易に想像が付く。
 まだ子供なのだ。

 なんとか、してあげられないだろうか。

 僕は思案を巡らせた。
 それに、寝る間を惜しんで取り組んできた帝人さんのためにも、中止は避けたい。

「あの、まだ時間はあるんですよね。なら、少しだけ……中止にするの待っててもらっていいですか?」

「何するつもり?」

 不思議そうにするお姉さんに、僕は声を振り絞った。

「僕、ちょっと探してみます。ピアノ貸してくれる人」

 彼女は目を丸くした。それから長い髪を呆れたようにかき上げる。

「アンタ、話聞いてた? 貸し借りできるものじゃないんだって」

「それはわかってるんですけど、でも……」

 見つからなければ、このまま発表会はナシ。
 しかし、もし代わりのピアノが見つかったら……発表会ができる。

 束の間の沈黙が落ちた。
 それを破ったのは、意外なことに類さんだった。

「じゃ、さっそく聞きに回ってくるか」

「確かに、探すことに損はないもんね」

 ニャン太さんが続く。

「え、あの、」

 思わぬことに目を瞬かせる。
 そんな僕には構わず、類さんが壁にかかった時計を一瞥すると言った。

「ニャン太の姉ちゃん。一応、機材とかの用意だけはしといてもらっていいか?
見つからなかったら俺らが片付けるからさ」

「それはいーけど……」

 それから彼は僕の肩を叩いた。

「伝、何ボーッとしてんだよ。行くんだろ?」

「こーいうのはさ、ひとりよりふたり。ふたり、より3人だよ!」

 力強い笑みに、不安が一掃されるようだ。
 ふたりなら奇蹟を起こせる気がした。

「俺も行こうか」

 と、帝人さんが口を開いた。
 それにニャン太さんは2本の人差し指でバッテンを作った。

「ダメダメ。帝人はピアノを弾くっていう大事な仕事があるんだから。体力温存しておいて!」

「んじゃ、また後で」

 類さんとニャン太さんがヒラリと手を振って、踵を返した。
 僕も慌ててその後に続いた。

* * *

 3人別行動で、ピアノを貸してくれる人を探した。

 僕は屋台を出している商店街の人や、お店で歓談するこの辺りに住んでいそうな常連客に 片っ端から声をかけた。

 ――ピアノ? 持ってないね。うちはアパートだから。

 ――ピアニカで代用したらどうだ? え? ダメ?

 ――あるにはあるけど……ごめんなさいね。

 予想できたことだが、全て断られてしまう。
 僕は昼間とは比べようもないくらい人の増えた往来を前に途方に暮れた。
 慣れない下駄で破れた皮膚が、じんじん痛む。

 もう時間がない。
 ピアノを持っている人がわかれば、もう少し効率的に聞いて回れるのだが……

 考えてハッとした。  お祭りの運営本部ならば、この辺りでお店を構える人の生活にも詳しいのではないだろうか。そもそも発表会はお祭りの出し物だし、協力を仰ぎやすいかも。
 ああ、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
 僕は人の流れにもみくちゃにされながら、運営本部のあるテントに向かった。

 と――

「あ、デンデン」

「どうだった、そっちは?」

 ニャン太さんと類さんも来ていた。
 既に本部には相談済みのようだ。ドッと全身から力が抜ける。

「僕の方もダメでした……」

「だよな。まあ、ピアノ貸すなんて誰も想定してねぇよなぁ」

 こめかみから流れ落ちた汗を手の甲で拭い、類さんがボヤく。
 と、本部のテントの中から声がかけられた。

「ねえ、小学校とかは? もう聞いた?」と、中年の女性が缶ジュースを差し出してくれる。
 お礼を言ってそれを受け取りながら、ニャン太さんは肩を竦めた。

「電話してみたんですけどねー。ダメだって言われちゃいました」

「まあ、そうなるわよねぇ……」

 色濃く諦めの色が落ちる。
 ニャン太さんは缶を僕らに手渡すと、プルタブを開けた。

 シュワッと炭酸の抜ける音。
 僕は冷たい缶を両手で包み、水滴を指でなぞる。
 本部のテントが最後の頼みの綱だった。
 残念だが、もう……

「……なんだ? 何かあったのか?」

 カランと下駄の音と共に低く厳つい声が聞こえたのは、そんな時だ。

「おかえりなさい、町内会長」と、本部の女性が挨拶をする。
 僕はふと顔を上げた。どこかで聞き覚えのある声だと思ったからだ。

「いえね、根子ちゃんとこ、ピアノが壊れちゃったんですって。それで彼ら、代わりを探してて……」

「ピアノ?」

 僕は男性の顔を見て目を丸くした。

「あ、あなたは……」

「なんだ。ガンコ眼鏡じゃねぇか」

 帝人さんのピアノ練習からの帰り道に出会った、酔っ払いのオジサンだった。
 商店街の半被を着て、手に飲みかけの缶ビールを持っている。今日も頬が赤かったが、この前ほどデロデロではない。

「……誰? 知り合い?」

 類さんが訝しげにする。

「知り合いというか……」

 言葉を探してもごもごしていると、オジサンはケッと口を歪ませた。

「知り合いじゃねぇ。人がほろ酔い気分で帰ってたとこに、コイツが水差してきやがったんだよ」

「す、すみませんでした……」

 僕は背を丸めて頭を下げた。
 そんな風に思われていたのはちょっと悲しいが、水を差したと言えばその通りだろう。

「で? なんでピアノが必要なんだよ」

 しょぼくれていると、オジサンが問うた。

「え……ええと、ですね……」

 戸惑いながらも、僕は何度も繰り返した説明を口にする。
 と、オジサンは盛大に笑った。

「はっはっは! バカだな。ピアノなんて誰も貸してくれるわけねぇだろ。ありゃオメェ、クソ高いんだよ。ウン百万ってするんだ。わかるか?」

「はい……」

「貸して欲しいって頼むのもバカだし、貸すヤツはもっとバカだ。そんなバカ、そうそういてたまるか」

 僕は俯いた。そんなに笑わなくてもいいのに……。
 悲しいし、恥ずかしいし……何より、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 そのバカなことに、類さんとニャン太さんを巻き込んでしまった。
 お姉さんも帝人さんも、ムリだと初めから言っていたのに。

「……おい、オッサン。さっきから人のツレに失礼じゃねぇか」

 類さんの苛立たしげな声が落ちて、僕は顔を上げる。

「バカをバカと言って何が悪い?」

「ああ?」

「る、類さん、僕は全然気にしてないのでっ……」

 今にも掴みかかりそうな彼を慌てて止めた。
 隣のニャン太さんの手の中で缶が潰れている。
 僕は焦った。ケンカなんてことになったら後悔してもし切れない。

「そっ、そろそろ戻りましょう、ね、そうしましょう……!」

 と、オジサンはゆっくりとした動作でビールをグビッと仰いだ。
 それから何が楽しいのか口の端を持ち上げた。

「まあ、最後まで聞けよ。バカはコイツだけじゃねぇってことさ」

「はあ?」

 類さんが鼻にシワを寄せる。
 オジサンは続けた。

「ピアノ、うちの持ってけ」

「え……」

 僕は耳を疑った。
 彼はまたビールをグビッと飲むと、意地の悪い笑顔を浮かべた。

「……なんだよ。いらねぇのか?」

「いります、お借りしたいです! ……で、でも、本当にいいんですか?」   「おう。うちのピアノ、置物になっちまってるからな。だったら、困ってるヤツに貸して恩売った方がいいってもんよ。巡り巡っていいことあるしな」

 僕は間髪入れずに勢い良く頭を下げた。

「あ、ありがとうございます! すぐに伝えてきます……!」

 それからすぐに踵を返す。

「あっ、おい、こらっ……」

 オジサンが何か言おうとしていたが、聞かなかったことにした。とにかく今は一刻を争う。

 ちょっと意地悪な人だなぁ、なんて思ってごめんなさい……! 

 心の中で謝りつつ、僕はニャン太さんのお姉さんにピアノが見つかったことを伝えるべく走った。

■ □ ■

「……運ぶのどうすんだか」

 走り出した伝を見やって、会長は呆れた声を出した。

「それに関しては大丈夫です。運搬の人は手配済みなので」

 寧太が応えれば、彼は「ふん、そうかい」と鼻を鳴らす。

「良かったわねぇ、見つかって」と、微笑む本部の女性だが、

「ありがとね、オジサン!」

「……ホント、助かったわ」

 ふたりの物言いに、ギョッと目を剥いた。

「ちょっ、あなたたち、会長にそんな口の利き方……っ」

「いーよいーよ。若ぇのはこんくらいイキが良くねぇとな」

 会長は呵々大笑すると、ビールを飲み干した。

「……でもさ、もうちょっといい感じに言えねぇの。無駄にイラッとしたんだけど」と、類。

「ああ? 仕方ねぇだろ。ああいう輩は無駄に意地の悪いことしたくなるんだよ」

 テントのクーラーボックスから新しい缶を取り出しながら会長が言う。
 次いで、彼はプルタブに手を掛けると類を見た。

「オメェもツレならわかるだろ?」

問いながら、缶を開ける。
類は器用に片眉を持ち上げた。

「あー……」

「類ちゃん、そこは否定しないと……」

 しばらくそんな話をしていると、寧太の姉を連れて伝が戻ってきた。
 それからは大わらわでピアノの運搬が始まった。

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