ファミリア・ラプソディア

スパイスと引力(1)

 鬱々とした夜が明けて、翌日。
 僕は人でごった返すキャンパス内を身を縮めて歩いていた。昼時なこともあって、辺りは談笑する学生や、サークルに勧誘する声で賑やかだ。

 そんな中、僕はコンクリートの上に転がる愛らしいキーホルダーに気付いた。
 それを清掃員さんがさっと塵取りに掃き入れるのを見て、慌てて声を掛けた。

「あの……今、掃いたそのキーホルダー、貰ってもいいですか」

「なに? これ君の?」

「いえ、落とし物なら掲示板に貼っておこうと思いまして」

「ああ、そういうこと」

 清掃員さんは落ち葉でいっぱいの塵取りからキーホルダーを取って、手渡してくれた。

「ありがとうございます」

 僕は受け取ったそれを、持ち歩いている除菌ティッシュで拭いながら校舎の中に戻った。
 そこそこ新しい、ゆるキャラのキーホルダーだ。留め具の部分が壊れていたから、鞄か何かにつけていたのが落ちてしまったのだろう。

 僕は学内掲示板の前に着くと、それをピン止めした。
『見つけてもらえるといいね』と心の中で言って、踵を返す。

 その時、「洞谷」と聞き覚えのある声に呼ばれた。

「……る、類さん!?」

 声の方を振り返った僕は、目を見開いた。そこには、先日バーで会った類さんがいたのだ。

「良かった。名前、覚えててくれてたんだ」

 近くまでくると、彼は人懐こい笑みを浮かべた。

 黒のインナーに、カーキ色のオーバーサイズのチェックシャツを羽織っている。黒のズボンはタイトで、長い足がよく映えた。

 彼は爽やかさの塊だった。
 洗練されていて、自信に満ち溢れていて、いかにもセンスがあるように見える。
 でも、僕が同じ服装をしても野暮ったくなるだけなのは目に見えているから、元の造形が良すぎるのだろう。

「どうしてここに?」

「それは内緒」

「内緒って……」

 同じ大学に通っていた、とか?
 しかし、彼のまとう雰囲気はどう見ても学生ではない。
 それならこの近くに用があった?
 まさか僕に……いや、さすがにありえないか。

「なあ、これから飯? まだなら一緒に食わねぇ?」

「いえ、僕は……遠慮しておきます」

 首を振り、視線を落とす。類さんの黒い革靴は磨き込まれていて、陽光を照り返ししっとりとした光を湛えている。

 その時、「頼久先生!」という明るい声と共に、甘い香水の風が吹いた。

 僕はハッと顔を上げ、駆け寄ってきた女性に向き直った類さんを見やった。

「どうした? 質問か?」

「そっ、そうじゃなくて……あのっ、サインくださいっ……!」

「それは最終日に時間作るっつったろ。それまでお預けだ」

「ええー。そんなぁ……」

「用はそれだけか? じゃあ、俺は飯食ってくるから。……行くぞ、洞谷」

類さんはあまりに自然に僕に声を掛けた。

「え、あ……はい……っ」

 だから僕は反射的に頷いてしまう。

 類さんは涼しげな流し目を僕に向けてから歩き出した。
 頷いた手前、やっぱり止めますとも言えず、僕は渋々彼の後をついていった。

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