ファミリア・ラプソディア

ピアノと酔っ払い(1)

 ある日の深夜。
 ふと目が覚めて水を飲もうと自室を出れば、どこからか微かにピアノの音色が聞こえた。

 たぶんクラシックの曲だろう。
 音の出処を探れば、どうやら帝人さんの部屋かららしい。

 重く、物悲しく、けれど不思議と可憐なその旋律は自室のベッドに潜り込み夢に落ちてからも、しばらく僕の耳に残り続けた。

* * *

 翌朝。
 食事を終え、歯ブラシをすべく洗面所に向かった僕は鏡を覗き込み髪を整える帝人さんと鉢合わせた。

「ああ、ごめん。洗面台、使うね」

「そのままで平気ですよ」

 僕は彼の脇から伸ばして、ブラシを水に濡らす。それから歯磨き粉を乗せた。パチンと容器を閉める小気味良い音が鳴る。

「そういえば……昨晩、帝人さん何を聴いてたんですか?」

「えっ!?」

 ギョッとして帝人さんが僕を見た。

「そんなに音漏れしてた? ごめんね、寝てる間にヘッドホンのケーブルが抜けちゃってたんだ」

「音漏れはしてませんよ。水飲みに起きたら、微かに聞こえただけです。知らない曲だったから気になって」

「ああ、そういうこと……良かった。起こしちゃったのかと思った」

 彼はホッと胸を撫で下ろすと、クシを片付けた。

「昨日聴いてたのはね、ラフマニノフ――ロシアの作曲家の曲だよ」

 聞き覚えのない名前だ。

「帝人さんって音楽、好きなんですか?」

「うーん……どうだろう。ピアノを習ってた時の名残みたいなものかな」

「ピアノ弾けるんですか。凄いですね」

「そんな大したものじゃないよ」

「どれくらいやってたんですか?」

「3歳から高校卒業するまで……」

「えっ、めちゃくちゃ長いじゃないですか……!」

「あはは。期間は確かに長いけど……ダラダラ続けてただけだよ」

 そう言って、柔らかく微笑む。
 僕は知れず感嘆の吐息を漏らした。

 帝人さんはいわゆる『ハイクラス』の人間……なんだと思う。
 立ち居振る舞いは優雅で、いつも笑顔を絶やさない。
 聞き上手で、否定的なことを一切言わない。話す時は、とても聞きやすいテノールの声でゆっくりと語る。
 その姿からは隠しようもない、洗練された育ちの良さが滲んでいる。

 そんな彼にピアノという単語はとてもよく馴染んだ。
 むしろ似合いすぎていて若干ズルいとすら感じた。

「伝くんは、音楽は?」

「何もやったことないです。興味はあったんですけどね。実家がちょっと古い考えだったもので」

「そうなんだ」

 ピアノは女性が嗜むもの……男が弾くと軟弱だなんだと笑われた。
 でもよくよく考えれば、有名な作曲家はほとんど男だし、音楽室に飾られている肖像画も 男ばかりだ。
 田舎の偏見はよくわからない。

「クラッシックに興味があるならCD貸そうか?」

「え、いいんですか?」

「うん。有名なものは持ってるから、言ってくれれば用意できると思うよ」

「ありがとうございます」

 帝人さんはニコリと笑うと、外していた手袋をつけ直し洗面所を出て行った。
 僕は歯ブラシを口に突っ込み、シャコシャコと動かす。

 口をゆすぐ頃、ニャン太さんが眠気まなこをこすりながらやって来た。

「あーあ、参ったなぁ……急に言われてもなぁ……」

 誰にともなく呟きながら、棚から整髪料の容器を取り上下に振る。
 やがて彼は覚醒したように、隣に立つ僕をハッとして見た。

「あっ、デンデン! ねえ、ピアノ弾けたりしない!?」

「はい……?」

 タイムリーなネタに、僕はまじまじとニャン太さんを見下ろす。

「ボクの2番目の姉ちゃん、ピアノの先生してるんだけどさ……今度、商店街の夏祭りで新規生徒獲得?を狙って、ストリート演奏会みたいなのやるんだって。
 でも青年部の教え子が皆無らしくてさ、サクラの生徒探してるんだ」

「すみません、ピアノはやったことがなくて」

「マジかー。じゃあ、友達にいない? バイト代弾むからさ!」

 顔の前で両手を合わせるニャン太さんに、僕は首を振る。

「そんなオシャレな友人に、心当たりはないですね……」

「そっかぁ……」

 そもそも友人自体ほぼ皆無である。
 僕は歯ブラシを片付けつつ、おずおずと口を開いた。

「と言いますか、ニャン太さん。帝人さんがいるのでは……?」

 言葉に、彼は目をまん丸にする。
 それから大袈裟な身振りで、両の人差し指を僕に向けた。

「あー! 近すぎて完全に盲点だった!!」

 ニャン太さんは整髪料の容器を放ると勢いよく踵を返す。

 朝から元気だなあ……。

 僕は微笑ましい気持ちで顔を洗うと、リビングへ向かった。

-43p-
Top