臆病な唇とトライアングル(1)
午前の授業を終えると、僕はマンションに戻った。
休日になると朝からまめまめしくホコリ取りをしている帝人さんを見て、掃除ならばと思ったのだ。僕が平日に済ませてしまえば彼もゆっくり休めるはず……。
自室に荷物を投げ入れると、帰り際に買ったダスターを手にリビングへ。
足元を悠々と横切るロボット掃除機・ワンダを尻目に、僕はテレビの裏や棚、壁にかかった絵の額上などのホコリを取った。ふふん、床は掃除できてもこの高さは掃除できまい。
「あれ、伝? 何してんの?」
類さんが自室から出てきたのは、そんな時だ。
今日の彼は白黒のボーダーシャツに、太腿くらいまで丈のあるネイビーの上着を羽織った姿。確か彼は家で仕事だったはずだが妥協なく、今日も爽やかだった。
「お疲れ様です。掃除しに戻ってきました」
「汚れてた?」
「いえ、僕なりにここで出来ること探してみたんです。それでバイトまでの空いた時間に掃除をしようと思い立ちまして」
「そのためにわざわざ戻ってきたのか。いいんだよ、そんな気を遣わなくて。お前は学生なんだから勉強してれば」
「勉強はバイトから帰ってきてからしますから問題ないです。夜の方が集中出来ます」
「夜は寝る時間だぞ。……って、俺が言えた義理じゃねぇけど」
少しの間を開けて、類さんは困ったように頭をかいた。
「あー……あと、さ」
「はい?」
「…………掃除はしなくていいよ。それは帝人の仕事だから」
そう申し訳なさそうに続ける。
僕は不思議に思いながら頷いた。
「知ってますよ。だから、僕が平日にしておけば帝人さんの負担も少しは軽くなるかなって思ったんです」
「負担とかじゃなくて、アイツ、自分が掃除しないと気が済まないっつーか。誰にも掃除させたがらないんだよ」
「へ?」
「ああ見えて、ちょっと気難しいとこあってさ。リビング、ダイニング、キッチンは、何かこぼしたとかじゃない限り、誰も掃除しないんだ」
「そ、そうだったんですか」
僕はダスターを慌てて引っ込めた。
「悪かったな。初めからちゃんと説明しておけば良かったんだが」
「いえ。確認しなかった僕が悪いんです」
「なんで帝人のこと考えて掃除してくれたのに、あんたが悪いってことになるんだよ」
類さんが驚いたように目を瞬かせるのに僕は肩をすくませる。
善意だとしても、生活のルールを確認せずに勝手をするのは良くない。
寮の時も同じようなことで怒られたことがあったのを思い出す。
またやってしまった、と自己嫌悪を覚えていると、そんな僕を鼻で笑うようにワンダがすいーっと前を走っていった。
「あの……僕にも何かここでの仕事を割り振ってくれませんか。何もしないでいるのは気が引けてしまって」
自分で探していたのは、たぶん虚栄心だ。みんなのことを思うのなら、さっさとこうして聞くべきだった。
「気にしなくていいのに……ってのは、伝にとっちゃ酷か」
類さんが顎に手を当てて、何か考えるようにした。
「仕事っつってもな……俺も家のこと何もしてねーし……」
しばらく悩んでから、彼は躊躇いがちに口を開いた。 「……俺の部屋、掃除する?」
「え……いいんですか!?」
「こっちがお願いしたいくらい。今、締切前でかなり散らかっててさ。床に物があってワンダも入ってこれねぇし」
「あっ、ありがとうございます!」
「そりゃ、俺のセリフだよ。ったく、あんた、ごめんとありがとうのタイミングおかしいぞ」
類さんが肩を揺らしてクスクス笑う。
でも、僕はやっぱり「ありがとう」で間違っていないと思うのだ。彼の部屋が散らかっているのなんて見たことがないし。ということは、わざわざ仕事を作ってくれたわけで。
――しかし、僕はすぐに考えを改めることになる。
久々に訪れた類さんの部屋は、泥棒にでも入られたのかと思うくらいに荒れ果てていたから。