5つのグラスとおやすみのキス(4)
口角を吊り上げて笑う。それはいつもの明るい笑顔と対照的な、もっと艶然とした笑み。
淡い光に照らされた彼は、年上の男の人だった。
「し、しまっ、しませっ……げほっ、げほっっ!」
唾液がヘンなところに入って僕は咽せた。
それに構わず、ニャン太さんの指先が僕の髪を弄び、視界いっぱいに彼の顔が広がる。
「ちょっ……」
待って。待ってください。
試しって何を試す気なんですか。
というか、類さんが隣にいるのに別の人とキスなんて……そんな、こと……だ、ダメだ、心の準備が、いや、問題はそこではなくて――
助けを求めて、類さんを見る。
でも彼はニヤニヤしているだけだ。
僕は諦めて、ギュッと瞼を閉じる。
すると、ニャン太さんは僕の頭に優しく触れた。
「うーん……カワイイ……」
呟きが落ちる。
拍子抜けして目を開ければ、彼はいつもの笑顔に戻っていた。
「か……からかわないで下さいよ……」
「ごめんごめん。デンデン見てると、なんだか困らせたくなっちゃってさ」
柔らかそうな金髪の毛先が揺れる。
ふわりと香るのは、シャンプーだろうか。それとも彼に染みついた水タバコのフレーバーだろうか。
「ごめんね?」
ニャン太さんは小首を傾げると、僕の唇に吸い付いた。
「…………っ」
間の抜けた沈黙の後、僕は勢いよく唇を覆う。
キスを、してしまった。類さんじゃない相手と。類さんの隣で。
「今のは気を許すのが早すぎたな」
と、類さん。
そんな試合の実況みたいに言わないで欲しい。
恨めしげに彼を睨めつけると、ニャン太さんはクスクス笑いながら寝転がった。
「……類ちゃんが惚れた理由、わかったかも。……ボクもデンデン好きだな」
「す、好きって……」
「一緒にいると楽しいよ。例えるなら、ひっつき虫だらけのワンちゃんから、種をひとつひとつ取ってあげてる時の楽しさみたいな? あーもーかわいいー好きーって感じ」
全然わからない。
それは僕の中にある「好き」の種類にはない。
「なんとなくわかるわ」
「でしょ」
でも、類さんには伝わっているようだった。
ふたりは、あんな感じこんな感じと話を続けた。
しばらくそれを聞いていたが、どれも僕にはピンとこない例えで疎外感を覚える。
付き合いを重ねれば、いつか僕にもわかるようになるのだろうか。
ふと、思った。
どれくらい一緒にいたら……同じくらい仲良くなれるのだろう。
「……類さんたちって、いつから一緒に住んでるんですか?」
僕は降って湧いた疑問を口にした。
類さんがピタリと会話を止める。
「どうした、突然?」
「気になって……聞いたらダメなことでしたか?」
「いや。そんなことねーけど……」
考えるような間が落ちて、ややあってから彼は応えてくれた。
「高校の頃からだよ。……って、もう10年になるのか」
「長いねぇ……」
「えっ……高校……?」
思わぬ答えに僕は目を瞬いた。
てっきり大学からとか、社会人になってからだと思っていたが、高校からだなんて。
年月の長さよりもそっちの方が気になってしまう。
親御さんはどうしていたんだろう、とか……
そもそも、どういう経緯で4人で付き合うなんてことになったんだ?
「寮生活だったんですか?」
「普通にアパート暮らしだよ」
けれど、そこから話が膨らむことはなかった。
類さんがどんな高校生だったか、ニャン太さんなら嬉々として話し出しそうなものなのに何も続けない。
「ニャン太さん?」
「……すぅ」
「――って、寝てる!?」
訝しげに彼の方を見やれば、ニャン太さんは穏やかな表情で寝入っていた。
口数が突然少なくなったのは、眠っていたからだったらしい。
「そいつ、停電みたいに寝落ちするんだよ。しかも1回寝たらテコでも起きねぇ」
類さんが僕の後ろから手を伸ばして、ニャン太さんの頬を抓んで引っ張った。
「ちょっ……」
上下左右、更にはグルッと回しても眉ひとつピクリとも動かなかった。
小さな物音でも目が覚めてしまう自分からしたら、かなり羨ましい体質だ。
「ほらな?」
「わかりましたから、やめてあげてください……」
言うと、類さんの手が離れた。
続いて彼は僕の髪を撫でた。つ、と吸い寄せられるように僕は彼の方を振り向いてしまう。
ドキリとした。
思ったよりも近くに類さんの整った顔があった。
「なあ。ニャン太にはおやすみのキスして、俺にはなし?」
類さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべると言った。
「あれは不可抗力ですよ……」
「でも、してた」
彼は、僕の手を取ると指先に唇を押し付ける。
「俺にもキスしてよ」
切れ長の眼差しに見つめられ、呼吸が止まった。
それに反比例するみたいに、心臓の鼓動が速度を増していく。
僕は浅く息を吐き出した。
躊躇いがちに鼻先をくっつける。彼との距離をゆっくりと詰めていく。
「やっぱり自分の部屋で寝ます」と告げるべきだろう。
3人は狭いし、類さんもニャン太さんもちゃんと休めないだろうから。
けれど。
「ん……」
唇が重なる。
見つめ合い、今度はどちらからともなくキスをする。
そうするともう、常識的な判断なんて台風の日のコンビニ袋より軽く舞い上がる。
側にいたい気持ちに負けてしまう。
「ん、んむっ、んぅう……」
僕はなんてゲンキンなんだろう。
「おやすみ」
名残惜しそうに銀糸を引いて、類さんの唇が離れた。
「おやすみなさい……」
僕は掠れた声で言うと、天井を見上げる。
ライトが消えて闇が落ちた。
瞼を閉じる。
ややあってから、類さんの方からも規則正しい寝息が聞こえてきた。
彼もまた寝付きがいいみたいだった。
僕は唇に触れ、それから胸の上で手を組んだ。
ふたつの温もりに挟まれて、身体がポカポカしている。
なんとなく幸せな気持ちになって、そう時間を置かずに僕の意識も白くぼやけていった。
* * *
その夜――夢を、見た。
僕は、高校生くらいの類さんたちとボートに乗っていた。
それは5人で乗るには明らかに小さくてぎゅうぎゅうで、いつ外に投げ出されるかヒヤヒヤしてしまう。
みんなで協力して、オールを漕いだ。
なんとか大海原へと出ると、そこには真っ赤な桜が咲いていた。
ヒラヒラ
ヒラヒラ
空の境界もわからない、青い空間に紅の花弁が舞っている。
僕らはそこでお花見をした。コーラを飲んで、ピザを食べた。
そんな、ちぐはぐな夢だった。