5つのグラスとおやすみのキス(2)
* * *
シャワーを浴びる順番は、ジャンケンで決めた。
「お先にいただきました」
「んー」
タオルで髪を拭いながら脱衣所を出ると、入れ替わりで類さんがソファを立つ。
それと同時に、ニャン太さんがソファの背もたれに飛び乗り、手にしていたドライヤーで自分の足の間を示した。
「デンデン、ここ。ここに座って。髪の毛、乾かしてあげる」
「自分でできますよ」
「いいからいいから」
気恥ずかしく思いながらも、言われた通りにすれば、熱を帯びた風と共に髪をワシャワシャとかき混ぜられた。
帝人さんは深くソファに腰を下ろして、本を読んでいた。その手は珍しく手袋をしていない。
蒼悟さんの姿はなかった。シャワーを浴びてすぐに自室に引き払ってしまったようだった。
ニャン太さんの柔らかな手が優しく髪を梳く。
人に髪を乾かして貰ったことなんてなかったから、こんなに心地良いものだなんて知らなかったな……。
……だんだんと眠くなってきた。
うとうとして、ハッと顔を上げる。
またうとうとしてくる。
気が付けばドライヤーの音は止まっていて、いつの間にか戻ってきた類さんが楽しげにこちらを見ていた。
ワインレッドの髪はしっとりしていて、長袖のルームウェアの肩口が少し濡れている。
「あ、あの、僕……っ」
「可愛い間抜け面をごちそうさん」
類さんがクスクス笑う。
火が付いたように顔が熱くなった。
ヨダレとか垂らしてなかっただろうか……思わず口元を拭ってしまう。
「次は類ちゃん乾かしてあげるよ」
「おー、頼むわ」
電源コードをまとめていたニャン太さんが、軽い足取りで類さんの方へ移動した。
「そいやさ。伝は学校、月金?」
ニャン太さんに髪を乾かして貰いながら、類さんが口を開いた。
「はい。ほとんど午前中で終わりですけど」
「じゃあ昼には帰ってくるのか」
「いえ……そのまま学校で次の日の準備をしてバイトに行きます」
「あー、週4だっけ。塾講師」
「え。めっちゃ大変じゃん」
「社会人に比べたら、文系の学生なんて気楽なもんですよ」
僕は肩をすくめる。
博士課程の先輩方は別として、修士はそこまで切羽詰まっていない。いや、切羽詰めろという話なのかもしれないが。
「それは職種によるんじゃない? ボクなんてチャラチャラ生きてるし」
「ニャン太さんは何のお仕事してるんですか?」
問うと、彼はドライヤーの電源を一旦切って、もう片方の手で拳を作ると何かを吸う仕草をした。
それから、フゥッと宙空に息を吐く。
何の仕草だろう?
小首を傾げれば、ニャン太さんはニコリと笑って「水タバコ屋さん」と答えた。
「水タバコ……?」
耳慣れない単語に、傾げる首の角度が更に増す。
「シーシャって知らない? ダラ~ッとフレーバーのついた煙を楽しむんだけど」
「???」
「チョイ待って。……こんなの」
ニャン太さんはポケットから携帯を取り出すと、何度かタップしてからローテーブルにそれを置いた。
ディスプレイには、見覚えのない花瓶のようなものと、それを楽しんでいるらしき人が映っていた。
アラビアンなテイストの花瓶だ。いや、花瓶よりもだいぶ高さがあるか。
そのオシャレなガラスの入れ物には水が入っていて、そこから球を連ねたような形状の銀のパイプが伸びている。上部には同色の皿が設置されていて、炭が置いてあった。
パイプから伸びたチューブは、派手派手しい色合いをしている。
「写真で伝えるのは無理なんじゃねぇか」
「あー、そうかも?
ニャン太さんは肩を竦めると、再びドライヤーを繰り始めた。
「デンデン、今度お店来てよ。ご馳走するからさ」
「は、はい、是非」
「ニャン太のタバコは旨いよ。凄く。他の店で吸えなくなる」
類さんが心地良さそうに目を閉じて言った。
「愛情たっぷり込めてるからね~」
よくよく話を聞けば、彼はフレーバーの買い付けに海外にも行くらしい。
「ドバイとか、イランとか、トルコとか。アメリカも行くけど中東が多いかな。安いんだもん」
僕とさして年は変わらないはずなのに、自分の店を持っている。その上、海外を飛び回っているなんて……バイタリティの高さに感心してしまう。
「買い付けついでに、面白い飴買って来てるんだ。好きに舐めていいからね」
彼はそう言って、テーブルの中央に置かれた青の缶を指さした。
得体が知れなかったが、中身は飴らしい。
「どーせなら、チョコ買って来いって言ってんだけどな」
「チョコは溶けるじゃん」
「飴だって溶けるだろ」
「まあ、そうなんだけど」
ニャン太さんは類さんの髪を手で整えてからドライヤーのコードを抜いた。
その時、ズボンとタオルを首にかけただけの姿で、帝人さんがこちらに歩いてきた。
「まだ起きてたの? 伝君は学校午後から?」
「いえ。そろそろ寝ます」
「そうした方がいいよ。ただでさえ引っ越しで疲れてるんだしね」
「帝人も髪乾かしてあげようか?」
「平気。片付けついでに、向こうで自分でやるから」
ニャン太さんからドライヤーを受け取って、帝人さんは洗面所にUターンした。
「じゃ、僕もシャワー浴びよっと。ふたりとも、また明日ね」
「はい。おやすみなさい」
ニャン太さんが帝人さんを追う。
その背を見送ってから、僕は改めて類さんに頭を下げた。
「類さんも。おやすみなさい」
「おやすみって……ちょっと待て。あんた何処で寝るつもりだ?」
顔を上げると、類さんが訝しげにしている。
「自分の部屋ですが」
「まだ片付いてないのに?」
「ベッドは使えますよ」
「却下。掃除もしてねぇし、喉痛くなったりしたら困るだろ。あんたは、しばらく俺の部屋で寝ること」
「で、ですが……」
ちらりとニャン太さんの方を見やる。
今の会話は、彼にも聞こえているはずだ。
いいのか? 本当に気にくわないとかないのか?
思えば、今日一日みんな凄く優しかった。
しかも僕は誰より類さんとくっついていた気がする。
実は、遠慮してたりするんじゃないのか。本当は、類さんと過ごしたいと思っているんじゃないのか……?
まだ、彼らの関係性を把握しきれていない僕は途端に不安になった。
「伝?」
類さんの手が頬に触れる。
僕はビクリと身体を跳ねさせると、咄嗟に口を開いた。
「ニャ……ニャン太さん!!」
「ん? なに?」
「ニャン太さんも一緒に寝ましょう!?」
振り返った彼に、僕は言っていた。
不自然な間が落ちる。
それから滑稽なほどズレたタイミングで、ニャン太さんが目を丸くした。
「ええっ!?」
自分でも意味不明だった。
身を引く気はないくせに、独り占めする気概もないなんて。
「だ……ダメ、でしょうか……?」
縋るように問えば、ニャン太さんは戸惑いながらも頷いてくれた。
「べ、別にいいけど……とりあえず、シャワー浴びたら部屋行くね」
「は、はい……!」
もう僕の幸福ゲージは限界を突破している。
オーバーした分は、ラップをかけて保存して、後で足りなくなったら取り込みたい。
……そんなことを「幸せ」で出来るかは不明だが。
ひとまず、類さんを独り占めし続けることは避けられそうだ。
僕は、肺の中が空っぽになるような安堵の溜息をついた。
と、後ろで類さんがフッと吹きだした。
「……大胆なヤツ」
「はい?」
意味が分からず類さんを見やる。
彼は僕の肩を掴むと、耳にうんと唇を寄せてきた。
「アイツ激しいぞ?」
激しい? 何のことを――
「そっ……そんなつもりはっ……!!!」
ない。だっ、断じて、ない!!
くっくっと声を出して類さんが肩を揺らす。
僕は青くなったり、赤くなったりしながらその場に立ち尽くした。