スポンジとまな板(4)
出版社まであと少しというとろでソウさんが僕を振り返った。
ちょうど僕も彼に声をかけようとしたタイミングだ。
というのも、四車線の横断歩道の途中で、お年を召した白髪の女性が大きな荷物を抱えて立ち往生しているのが見えたから。
「大丈夫ですか……!」
僕は、車の往来の音に消されないよう、大きな声を張り上げた。
こちらを向いたおばあさんは、ニコニコして応えてくれる。
「なんですって?」
僕は更に大きな声を出した。
「渡るの、お手伝いしましょーか!」
「私はミラ・ジョヴォヴィッチじゃないですよ」
「全然言ってませんよ、そんなこと!?」
「聞こえていないな」
ソウさんの言葉に、僕は頷いた。
このまま大通りを挟んで声を掛けていてもラチがあかない。
「信号が変わったらそっちに行きますから、待っててくださいね!」
「はいはい、分かりましたよ。すぐ、そっちに行きますからね」
「わーッッッ!? 止まって、止まって!!」
赤信号にも拘わらずこちらへと歩いて来ようとする彼女をなんとか身振り手振りで説得 し、僕たちは信号が青に変わるや否や駆け寄った。
ソウさんは荷物を、僕は彼女を背負って対岸の歩道まで移動する。
地面に下ろすと、彼女は頭を下げてから人の良さそうな笑みを浮かべた。
「本当にありがとうねぇ。困っていたんですよ」
「怪我がなくて良かったです」
「次は歩道橋を使った方がいい」
ソウさんが言う。
すぐ傍に歩道橋があるし、わざわざ急いで歩道を渡るよりもずっと安全だ。
しかし彼女は困ったように眉根を下げた。
「ワンチャン行けないかとトライしてみたんですけどねぇ。ほら、この年ですから、膝が悪くて階段を登るのも大変で……でも途中で信号が変わってしまって……マジぴえんって感じだったんですよ」
「えっ……?」
聞き慣れない言葉に一瞬、頭がフリーズする。
「何かの呪文か……?」
「良かったら、お礼にそこのお店でタピらせてくれませんかね? 映える感じでキャワワなんですよ」
「バエ……? キャワワ?」
ソウさんがますます顔をしかめる。
僕は胸の前で手を振った。
「いえ……ぼ、僕たち、急いでいますので、お気持ちだけで十分です」
「あらあら。残念……ガチしょんぼり沈殿丸ねぇ」
なんだろう、随分と若々しいおばあちゃんだ……。
「それなら、ツイアカを交換しましょう」
「ツイアカというのが何か分からないが……名刺でいいだろうか?」
前回同様、ソウさんが名刺を渡し、僕らは女性と別れた。
「ソウさんっていつも名刺、持ち歩いてるんですね」
意外に思って言えば、彼は名刺入れから1枚カードを抜き取った。
「いつも持ち歩いてる」
見せて貰うと、それは個人のものではなくてショップカードだった。
凄くソウさんらしいなぁ、なんて納得してしまった僕だった。
* * *
それからしばらくせず、目的の出版社のビルが見えてきた。
類さん、まだついていないといいのだけれど……焦りで次第に歩く速度が上がる。
その時、前方にフラつく類さんの姿が見えた。
「類さーん!」
呼んでみるが、こちらに気付く気配はない。
あと少しなのに、無情にも目の前の信号が点滅し始めた。そして彼の姿はビルの中へと吸い込まれていく――
「伝、荷物を貸せ」
「は、はい!?」
言われるがまま、ソウさんに抱えていた荷物を手渡すと、彼は軽快な様子で地を蹴った。
一陣の爽やかな風が吹く。
僕は……信号を擦り抜けた彼の、そのあまりに美しい後ろ姿に目を奪われた。
類さんが自動ドアに踏み込む刹那、ソウさんが彼の腕を掴んだ。
ギョッと振り返った類さんが戸惑いながら荷物を受け取る。
僕は横断歩道の手前で、膝に手をつき跳ねた呼吸を整えた。
類さんはカバンの中身を見て、髪をかいた。それから、めちゃくちゃ申し訳なさそうに荷物を交換してソウさんを拝み、続いて僕の方に手を振った。
「ありがとなー! 伝も!」
「お疲れさまです!」
僕も手を振り返す。
類さんはとろけるような笑顔を浮かべて、ビルの中へと消えていった。
信号が青になって、僕はソウさんと合流した。
「凄く速いですね!」
「意外と走れた」
ソウさんはコクリと頷いてから、微かに表情を綻ばせた。
「……気持ち良かった」
ああ……彼は本当に走るのが好きなんだな、と感じる。
だから僕は言わずにはいられなかった。
「足、痛くないなら……また走ってみるのもいいかもしれませんよ」
ソウさんが目を瞬く。
次いで破顔した。
「そうだな」
「……っ」
半年以上共にいて、初めて満面の笑みを見た気がする。なんとも貴重な瞬間だ。
「……伝も一緒に走るか?」
「いいんですか? でも、ソウさんの速さについていけるかどうか……」
「そのうち慣れる」
速度を落としてくれたりはしないらしい。
かなりハードなトレーニングになりそうだ。
* * *
後日、ソウさんが両手に大荷物を抱えて職場から帰って来た。
どうやら、この日に助けた人たちがお店を訪れたらしく、お土産まで置いていったとのこと。
中身は、ロングヘアのウィッグとメイド服、それから愛らしいリップだった。
「お前ら何したの」
類さんがお土産を眺めて不思議そうにする。
僕とソウさんは曖昧に笑うと、ありがたく丁重にそれらをクローゼットの奥へしまった。
そのアイテムが後日一波乱巻き起こすのだが……それはまた、別のお話。
step.28 「スポンジとまな板」おしまい