ファミリア・ラプソディア

スポンジとまな板(2)

『……駅の間の全線で運転を見合わせております』

 最寄りの地下鉄は、信じられないことに運転を見合わせていた。
 信号トラブルらしく復旧の目処は今のところ立っていない。

「何でこんな時に限って……どうしましょうか」

「歩いていく」

 確かに距離的には不可能ではない。
 類さんもこのトラブルに巻き込まれて、途中から徒歩で向かった可能性もあった。
 だが……

「ソウさん、足は大丈夫なんですか?」

 徒歩で行けるとは言っても、かなり距離がある。
 心配に思って問いかければ彼はゆるりと首を振った。

「普通に歩いたり走ったりする分には問題ない」

「そうですか」

 僕は荷物を抱え直すと、ソウさんと一緒に地上へ出た。携帯の地図アプリを彼と覗き込み、冬の晴天の下を歩き出す。

 僕はダウンコートの襟首を立てて風よけにすると、脇目も振らずに真っ直ぐ進んでいくソウさんを追った。

 大通りに沿って歩くこと数十分。
 歩道の途中で立ち尽くす中年の男性がいた。
 彼は頭を両手で隠すように覆いながら、街路樹の上の方を睨みつけている。

 彼は何をしているのだろうか……  もしかして、何か困っている……?

 などと考えた僕は、首を振ってその思考を追い払った。
 今は関係のない他人を気にしている場合ではない。
 すぐに類さんを追いかけなくては。
 ……だが。

「ソウさんっ! すみません、ちょっと待っててください!」

 不思議そうにコチラを振り返ったソウさんを置いて、僕は来た道を引き返した。

「あ、あの! 何か困ってるんですか!」

 男性は一瞬身体を強張らせて僕を見ると、すぐに街路樹へと視線を戻した。

「見ての通り、人生最大の危機に瀕しているんだ……」

「凄く大変そうだというのはわかるんですけど、見ても何が起こっているのかまでは……」

 僕がそう言うと、男性は両手を頭上に置いたまま顎で街路樹の上の方を示す。
 何があるのかと目を凝らしてよく見てみると……

「あっ……」

 枝と枝の間に何故かカツラが引っかかっていた。

「なんで、あんなところにカツ……」

「帽子だ!」

 男性がぴしゃりと僕の言葉を遮る。

「私の大事な『帽子』が、風で飛ばされたところを見事にカラスにキャッチされ、あそこに置き去りにされてしまったんだ。まさか『帽子』をこんな風に失ってしまうとは、甚だ困っている」

「帽子……」

「なにかね?」

「いえ、なんでもありません……」

 広い意味でとらえれば、あれも帽子の一種だと言えなくはない。……たぶん。

「今日は寒いからね。帽子の代わりに、こうして手で暖をとっているというわけだ」

「はぁ……」

「……今、そんな頭だったらさぞかし寒いだろうと思っただろう?」

「いえいえいえ! 思っていませんよ!」

「本当かね……?」

「本当ですって。あの良ければ、僕が取りましょうか?」

「なんと!」

 男性がこれでもかというくらいのオーバーリアクションで驚いてみせる。
 その際に頭から一瞬だけ手が離れ、キラリと輝くなにかが見えた。
 が、何も見なかったことにして僕は慎重に街路樹の枝を掴み、登ろうと試みる。

 少し枝の強度が心許ない。
 どうしたものかと考えていると、そこへソウさんがやって来た。

「伝、何をしてる?」

「少し人助けを……ええと、あそこに引っかかっている帽子を取りたいんです」

「帽子? あれは、カツ――」

「帽子だ!!」と男性が叫ぶ。

「……変わった帽子だ」

 ソウさんが頷いてくれて、僕は内心胸を撫で下ろした。

「だが、この木を登るのは危ない」

「ですよね……」

「やはり、無理か。青年……」と男性が肩を落とす。

「大丈夫です、なんとかします! 今、方法を考えますから……」

 近場に突けるような棒もないし。ジャンプしても届く高さではない……
 と、思案している途中で、ソウさんがしゃがみ込んだ。

「ソウさん?」

「伝、乗れ。背負う」

「えぇっ!? 背負うって僕をですか!?」

「肩車すればたぶん届く」

「それならソウさんが僕に乗ってくださいよ」

「なに?」

 さすがに彼の足を考えるとそんなマネはできなかった。それに上背も、本当に微かだが、僕の方がある。

「そんなに力があるわけではないですけど、木を押さえているので大丈夫かと」

「わかった」

 僕は両手を木の幹について、両足を踏ん張った。
 背にソウさんが乗っかる。
 かと思うと、彼はとても身軽な様子で、男性の『帽子』を回収した。
 逆だったらこうまでスムーズにはいかなかっただろう。

「取ったぞ」

「おおっ、ありがとう!」

 ハラハラと見守っていた男性に、ソウさんが『帽子』を手渡した。すると、彼は変面のような一瞬の動作でそれを被ってみせた。

「君たちは命の恩人だ!」

「そんな大袈裟な」

「大袈裟なものか。これがなければ私は寒さに打ちひしがれ、これから向かう商談で役に立たなかっただろう」

 帽子には未だ葉っぱやら枝やらが刺さっているが大丈夫なのだろうか、と一抹の不安がよぎるが、男性はそこは気にしないらしい。

「是非、お礼をさせてくれ!」

 僕とソウさんは顔を見合わせた。
 ソウさんが無言で首を振る。僕もそれに続けた。

「いえ、お気になさらず。お気持ちだけ受け取ります」

「いやいや、そこをなんとか! 名前だけでも!」

 とりすがる彼にソウさんが名刺を渡し、やっと僕らは解放された。

「今時見上げた青年たちだ。うむ、彼らにもこの素晴らしい『帽子』をプレゼントしなければ……」

 背後から耳に届いた言葉を聞かなかったことにして、僕らは先を急いだのだった。

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