ファミリア・ラプソディア

スポンジとまな板(1)

 ある秋の日の昼下がり。

「それじゃあ、行ってくるわ……」

 カバンを脇に抱えて玄関へ向かった類さんは、寝不足で死にそうな顔色をしていた。
 見送りに出た僕は心配そうにそんな彼に声を掛けた。

「あ、あの、大丈夫ですか?」

「うん……」

 編集部に行くらしいが……途中で寝てしまいそうだ。
 類さんは目の間を指先で揉んだり擦ったりしながら、首を左右に振った。

「良かったら、一緒に行きましょうか……?」

「いや、いい……平気……何時に帰れるかわかんねぇし……」

 そう応えると、彼はフラフラしながらマンションを後にしてしまう。

「……編集さんに来て貰うことって出来ないのかな」

 誰にともなくボヤきみんなのいるリビングに戻ると、ニャン太さんが肩を竦めた。

「編集さんも『マンションの方に行きますよ~』って言ってくれてるんだけどねぇ。頑なに類ちゃんが嫌がるんだよ。ね、ソウちゃん」

 キッチンで夕食の下ごしらえをしていたソウさんが無言で頷く。

「どうしてですか?」

「仕事の相手は家族のフィールドに入れたくないんだって。あれでいて縄張り意識がかなり強いんだよ」と帝人さん。

「そうなんですか」

 僕は頷きながら、ちょっと意外に思った。
 類さんは気さくだし、誰にでもオープンな感じがしていたから。

 考えたことがなかったが、僕がこのマンションで生活できている今って物凄く奇跡的なことなのかもしれない……

 そんな話を終え、僕は飲み物を取るためキッチンに向かった。

「――伝。大変だ」

 すると、ソウさんが声を上げた。

「どうかしまし……えっ!?」

 振り返った僕は、一瞬思考を停止した。
 これから調理されるのであろうカボチャが、何故かまな板ではなくノートパソコンの上に乗っているではないか。
 いったい、どうしてそんな場所に……?

「カボチャが安定しなくて切りづらい」

 包丁をカボチャに当てて、グリグリしながらソウさんが眉根を下げる。

「いやいやいや! そういう問題じゃないですよね!? そもそも、なんでノーパソの上で切ろうとしてるんですか!?」

「分からない。いつも通りまな板を取ったら、何故かノートパソコンに変わっていた」

「そんな馬鹿な……」

「とりあえず、このままやってみる」 

「わぁああっ!? ま、ま、待ってください!」

 グッと体重をかけようとした彼を慌てて止める。このまま調理が続行したら、色々な意味で大惨事になることは必須だ。

 僕はソウさんの手元からノーパソを取り上げた。
 そんなやり取りを見ていたニャン太さんが、シンクでグラスを洗いながらケラケラと笑った。

「しっかりしてよ、ソウちゃん。普通、まな板とノーパソを間違えたりなんて……あれ、このスポンジ、なんか泡立ちが……」

「にゃ、ニャン太さん! それ、スポンジじゃなくて、携帯ですよ!」

「あれ、ホントだ」

 泡だらけになった携帯を見て、ニャン太さんが目を瞬かせる。

「これ、類ちゃんの携帯じゃん」

 驚いたように、彼は泡だらけになったスマートフォンを突き出した。

「洗剤付ける前に気付きましょう!?」

「あはは。昨日、遅くまでゲームしてたせいで頭働いてないみたいで……ま、流せばなんとかなるっしょ」

 ふわぁあ、と大きなあくびをしながら彼は問答無用で携帯についた泡を水で流した。

「ちょっ、水洗いはダメですって!」

「防水加工だから大丈夫だよ」

「限度がありますよ!?」

「えー?」

 僕はニャン太さんの手から濡れたスマートフォンを取り上げ、手拭きタオルで包み込む。
 それから回収したノーパソと一緒に携帯をテーブルに置き、息をついた。

「まったく、どうなってるんですか……」

「不思議だよねぇ。まな板とスポンジが入れ替わっちゃうなんて」

「不思議、かな?」

 黙って成り行きを見守っていた帝人さんに、僕たちは一斉に視線を向けた。

「まな板とスポンジが無くなって、代わりにノートパソコンと携帯があったんでしょ? しかも両方とも類のときた」

「つまり……?」

「つまり、類が入れ替えたんじゃないかな」

「何のためにそんなことを……」

「たぶんだけど……寝ぼけてたんだと思う」

 言って、帝人さんは困ったように笑った。

「だとしたら、大変じゃないですか!」

 どうしたら寝ぼけてこんな入れ替え方をするかは分からないが……気力を振り絞って編集部まで出掛けていったのに、仕事道具全て忘れたなんてなったら類さんがその場で砂になりそうだ。

「僕、すぐに届けてきます」

「あ、なら車回すよ。今日、休みだし」

「絶対やめてください!」

 僕は作りかけていたインスタントコーヒーにラップを掛けると、ノートパソコンと携帯を脇に抱えた。

「場所を知っているから、俺も行く」

「よろしくお願いします」

 それから大慌てて支度をし、ソウさんと一緒に類さんを追ったのだった。

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