ファミリア・ラプソディア

ゆりかごとウツツ(1)

 ニャン太さんたちに昔の話を聞いてから、数日経った。

「そろそろ朝ご飯ですよ」

 類さんの部屋を訪れた僕は、ノックをして扉の外から声を掛ける。
 と、中から聞こえていた微かな会話の気配が止んだ。

「……伝、ちょっといいか」

それから類さんの声が僕を呼ぶ。

「は、はいっ……!」

 何か自分にも手伝えることができたのかも、と僕は急いで扉を開けた。
 それから、あたふたとふたりに回れ右をする。ふたりは裸だった。

「……ソウ。伝もいるし、大丈夫だよ」

 類さんが言った。  ベッドの軋む音が続く。僕は状況がわからなくて首を傾げる。

「あの……?」

「コイツ、まだ仕事行かねぇって言い張るんだよ。さすがにもう大丈夫、落ち着いたっつっても全然聞いてくれねぇ」

 体調が酷い時の類さんは、ソウさんにしか甘えない。だからソウさんはその時期は仕事を休む。彼は職場に事情を話していて、理解を得ているとは言っていたが……

「なぁ、ソウ。お前、この前、副料理長になったばっかじゃん。みんな待ってるぞ」

「仕事の代わりはある。でも、類はひとりだ」

 ソウさんが間髪入れずに答える。
 それに類さんは小さく溜息をついた。

「俺は……お前の仕事、大事にしたいよ。たくさん積み重ねてきたんだ、簡単に手放して欲しくねぇ。……俺のせいなんだ、なおさらさ」

 類さんは珍しく子供に語りかけるような優しい口調で言った。
 彼は、自分のせいでまたソウさんが何かを失ってしまうのを恐れている。一方、ソウさんは類さんが心配で、傍にいたいと思っている。

 僕は会話が途切れたタイミングを見計らって、ふたりを振り向いた。

「あの……ソウさん。僕に任せて貰えませんか?」

 類さんを抱きしめていたソウさんに告げる。
 彼はチラリと僕を見た。

「あなたの代わりにはなれないですけど……」

 ソウさんがまた何かを手放すようなことになったら、類さんはますます自分を責めてしまうだろう。それだけは避けたい。
 それに、ここ数日は類さんも言う通り落ち着いている気がする。ご飯もみんなと一緒に食べるし、ちゃんと僕らの声も聞こえている。

 ソウさんは少し迷うように視線を落とす。
 類さんが「大丈夫」と言うように、彼の背中を優しく叩いた。

 ソウさんと目が合う。
 彼は物言わず僕の瞳の奥を覗き込むようにしてから、類さんを離した。

「……わかった」

 ふたりがシャワーを終えると、僕とニャン太さん、類さん、ソウさんの4人で朝ご飯を食べた。帝人さんはもう仕事に行ってしまっている。

「ソウちゃん、仕事行くの?」

 目をぱちくりさせるニャン太さんに、ソウさんは頷いた。

「……伝に任せる」

「任されました」

「じゃあ、安心だね!」

「お前らは過保護なんだよ……」

 と、カフェオレをすすりながら気恥ずかしそうに類さんが呟く。

 食事を終えると、僕は類さんと一緒に彼の部屋に行った。
 お尻の下にクッションを敷いて、ベッドに寄りかかる。

「……伝。学校平気なの」

 と、ベッドで丸くなった類さんが口を開いた。

「今日からしばらくお休みなんです。教授が学会に行ってて」

「付いていかなくて良かったのか?」

「ドイツですからね。お留守番ですよ」

 博士課程の先輩でも、付いていったのはひとりだけだ。
 僕は類さんの髪を撫でると、持って来ていた本を開いた。

「ここで本読んでますから。不安になったら言ってくださいね」

「うん……」

「手、握ってもいいですか?」

「はは。読みづらいだろ」

「全然。片手が空いてれば十分です」

 類さんの手を握ると、立てた膝で本を支える。
 文字を追いながら、僕はちょっと安心していた。
 お風呂場の時みたいに押し倒されたらどうしようと思っていたけれど……類さんはそういったことは全くしてこなかった。

「……伝はさ」

「はい?」

「いや……今、何読んでんの。修論の資料?」

「趣味のです」と、応えながら僕は苦笑いを浮かべる。

「図書館で予約してたのがやっと回ってきたんです。今読んでる場合じゃないのは重々承知なんですけど、これ逃したら次はいつ読めるかわからないので」

「買ってやろうか?」

「とんでもない。これ、高いんですよ」

 僕はブンブン首を左右に振る。

「なに? 文庫本だろ?」

「絶版になってて、プレミアが付いちゃってるんです。20倍くらいに跳ねあがっちゃってるんですよ」

 1500円が今は30000円だ。
 復刊の希望も出したりしたが、読む人が少ないのか全く相手にされていない。

「そんな貴重な本なの」

「貴重というか……マイナーと言いますか……」

 あいまいに笑うと、類さんはじっと僕を見てから表情を綻ばせた。

「時々、あんたの頭の中、覗いてみたくなるな」

「ええっ? どうしてですか?」

「めっちゃネタの宝庫そうだから……」

「ネタ……」

 くすくす笑う。
 なんだか久々の彼の笑顔に、僕は心底嬉しくなる。

 しばらく頬に彼の視線を感じていた。
 やがて顔を上げると、彼は静かに寝入っていた。

 僕は本を横に置いて、そっと彼の顔を覗き込む。
 髪を撫でた。鼻先を愛おしい香りが掠める。
 唇に触れたいと思ったけど、やめた。僕は手を握り直すと、また読書に戻った。

* * *

「お昼ご飯食べよー!」

 13時を回る頃、ニャン太さんが顔を覗かせた。
 リビングのテレビには、ホラーテイストのゲーム画面が浮かんでいる。

 昼食後、類さんは自室に戻ろうとしてやめてリビングに留まった。
 ソファにゴロリと寝転んで、ニャン太さんがプレイしているゲーム画面を眺める。

「類ちゃんも一緒に鬼ごっこする?」

「いや、俺はいいよ。伝、やってみたら?」

「僕ですか!? 絶対、足手まといになると思いますけど……」

「大丈夫大丈夫。脱出までボクが鬼のこと引き寄せておくから」

 ニャン太さんが小さめのモニターとふたつ目のハードを自室から持ってきて、テレビの横に並べた。
 初めてのゲームは、予想通り散々な結果だった。

「デンデン! ごめん、逃げて! そっち鬼行った!」

「えっ、えええ、ちょっ……あ、ダメです、見つかりました! うわぁっ、これ、もう無理だっ……」

「ははっ、ダッシュするタイミング遅かったな」

 ニャン太さんが仕事に行くまで、そんな風に過ごした。
 類さんとふたりきりになると、また自室に戻った。読書している僕の横で、彼もまた本を読み始めた。

 歯車がかち合ったように、時間が進み始める。――ゆっくりと。穏やかに。
 僕は類さんの笑顔がひとつ増える度に、息を吹き返したような気持ちになった。

* * *

 それから更に数日して、夕食時に類さんは気恥ずかしそうに口を開いた。

「……みんな、心配かけて悪かったな。今日から仕事戻るわ」

「仕事戻るって、もう22時過ぎてるけど」と帝人さん。

「一番捗る時間帯だろ」

「夜は寝る時間ですー」ニャン太さんが箸でバツを作る。

「っつーて、締切がなぁ……」

「結局、午前中寝てるなら、今から寝て朝起きたらいいのに」

「起こしましょうか?」

 問えば、類さんはジャージャー麺の肉だけ麺に絡めながら首を振る。

「……朝は寝る時間だから」

 その皿の上に、ニャン太さんがワサッとレタスやらキュウリやら人参やらをトングで挟んで乗せた。

「げっ! いらねぇよ、野菜!」

「どーせ締切に間に合わせられるか不安で眠れないってことでしょ? いざとなったらボクが寝かせてあげるから無問題」

「……結局、朝方に寝るハメになるヤツだろそれ」

「伝は?」とソウさん。

 ニャン太さんが手を打つ。僕は目を瞬いた。

「僕ですか? お役に立てるなら頑張ります」

 そう言えば、アルファ波が出てるって言われたっけ。
 この間も、類さん気持ち良さそうに眠ってたし……

「……伝が一緒なら、まあ」

 類さんが言うのに、ニャン太さんがニコリと笑う。

「じゃあ、今夜は久々に3人で寝よっか♪」

「わかりました」

 微笑み頷いた僕は、全く脳天気だった。
 もちろん朝方まで寝かせてもらえず、3人で昼までぐったりすることになったのは言うまでもない。

* * *

 こうして、僕の愛おしい日常が――痛いくらいに甘い毎日が戻ってきた。
 鬱々とした数日を上書きしていくみたいに、僕らは笑って、じゃれ合って、キスをして……愛し合った。
 それはあまりに楽しい日々で、この時の僕は笑顔の裏でズレていく歯車に気付くことができなかった。
 僕は……全く脳天気だった。




step.27 「ゆりかごとウツツ」 おしまい

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