ファミリア・ラプソディア

ナイフと長い夜(3)

 その日はちょうど仕事が休みだった。

 俺はいつもの時間に起床して、朝ご飯の用意をした。ひとりで食事をして、類の分にラップをかける。
 ゴミをまとめたり、皿を洗ったりしていると類が起きてきた。
 俺は手を止めて、朝ご飯をぼんやり食べる彼を眺める。

 今日はいつもよりも食べている。
 調子がいいのか、彼は2度寝せず起きていた。

 俺がシンクを洗っている間、類は紙パックを開いてまとめていた。

 幸せで、穏やかな日常だ。
 天気もいいし、久々に昼食は外で食べようと考えた。
 類の好きなハンバーガーにしよう。きっと彼も喜ぶ。

「類。今日の昼なんだが……」    振り返った俺は、舌を引きつらせた。
 類の右手首から血が滴っていた。

 突然のことで思考が停止する。
 彼はぼんやりと紙パックに落ちる赤を見下ろしていた。

「な、何してるんだ……っ!」

 我に返って駆け寄れば、類は驚いたように握り締めていたカッターを取り落とした。

「わ、かんねぇ。……切っちゃった」

 俺はすぐさまティッシュで傷を拭った。
 それはすぐに真っ赤に濡れた。

「……病院」

「や、そんな深くねぇし」

 焦る俺とは裏腹に、類はどこか他人事のように首を振る。
 俺は財布を手に取った。

「……消毒液買ってくる」

 彼の言う通り深くはないとしても、傷をそのままにはできない。
 俺は類の手首に新しいティッシュを押し当ててから玄関へ向かい、彼の元へ戻って「類も行こう」と左手を掴んだ。

 類をひとりには出来ない。
 ティッシュをセロハンテープで巻いて固定して、ふたり一緒にアパートを出た。

「お、おい……」

 類の左手を握りしめたまま、俺はドラッグストアに向かった。
 道行く人が、男同士で手を繋ぐ俺たちに好奇の目を向けてくるが関係ない。

「なぁ、手、離せよ。すげー目立ってるから……」

「嫌だ」

 俺はレジで会計する時も、類のことを離さなかった。
 店員は不審な顔をした。類はずっと項垂れていた。

 類が言った通り傷は深くはなかったようで、アパートに戻る頃には血は止まっていた。

 消毒をして、ガーゼを敷いて包帯を巻く。
 類は大袈裟だよと笑ったが、俺は生きた心地がしなかった。

 もっと深く切っていたら?
 手首ではなく、別の場所を傷つけていたら?

 死、という単語が脳裏をよぎって指先が震えた。
 彼を失うなんて考えるだけで目の前が暗くなる。

 俺はその夜、眠れなかった。

 朝になって、職場に休むと連絡をした。
 その少し後に、ぼんやりと瞼を持ち上げた類が時計を確認し、眉根を寄せた。

「蒼悟。仕事は?」

「休んだ」

「え……なんでだよ」

「お前の傍から離れたくない」

 言うと、彼はばつの悪い顔をした。

「悪かったよ。死にたいとかそういうんじゃないんだ。もう、大丈夫だから」

「大丈夫だという保証がない」

 仕事に行っている間に、また彼が手首を切ったら?
 彼に死ぬ気がなくても、たまたま深く傷つけてしまったら?

 取り返しがつかない。
 命はたったひとつだ。失ったらもう取り戻せない。

 俺は類を抱きしめた。

「……ごめん。俺、ホント、お前の人生の邪魔してるな……」

 類が呟く。
 俺は彼を組み敷くと両手を布団に押しつけた。

「邪魔じゃない。邪魔だなんて、思ったことない」

 強く言った。
 類は目を見開いて、それから顔を背けた。

「……邪魔だろーが」と、自嘲した。

「邪魔じゃない……っ!」

 俺は……俺は、初めて類の意思を無視して、彼を無理やり抱いた。

「蒼悟っ、やめっ……っふざ、けんなよっ……!」

 類は怒鳴って俺に噛みついてきた。
 殴って、蹴って、血が滲むほど爪を立てて、すがりついてきた。

 俺は、奥歯を噛んで果てる類を更に揺すぶり泣かせた。

「嫌だ……もう嫌だ……っ、蒼悟……っ!」

 ほの暗い場所をこじ開けて、想いを突き立てるように。類の居場所はこちら側なのだと、鮮烈に焼き付けるように。
 類の甘い声が枯れて潰れるまで、俺は彼を抱いた。

 気がつけば夜は更け、ふたり布団にぐったりと肢体を投げ出していた。
 身体のあちこちが痛んだ。

「……はは。満身創痍だ」

 隣で目を赤く腫らした類が俺を見て笑った。

 長く細い指先が、こちらに伸びた。そっと頬を撫でる。かと思えば、彼は爪を立てた。
 皮膚が破ける感触に胸が熱く震えた。

 痛みが愛おしかった。
 類が傷ついた分だけ、俺も傷つこうと決めた。

 その日、類は朝までぐっすり眠った。
 連日うなされていたのが嘘みたいに、穏やかな表情で寝息を立てた。

 だから俺は翌日も仕事を休んで、類と過ごした。
 狭い部屋で、荒い呼吸と汗と、弱々しい声がもつれ合う。
 快楽に柔順になっていく彼に俺はますます溺れていった。

 ……いつからまともに寝ていないのか、よく思い出せない。深い森で遭難したかのような日々だった。
 時間感覚も曖昧になり、ついに職場に連絡すらしないで休んだ。

 ある夜、オーナーから電話がきてきつく叱られた。明日も休むならクビだと宣告された。
 いつもどやしてくる先輩からは、何かあったのかと心配された。

 優しい職場だった。
 見捨てられていないことに、俺は少しだけ冷静さを取り戻した。

 寝息を立てる類を見下ろしながら、仕事がなくなったら生きていけないな、なんて考える。

 働かなければならない。
 けれど、仕事に行っている間に類が死んでしまったら?
 ――行けない。行けるわけがない。
 だが金は必要だ。仕事に行かないと。
 でも類をひとりにするわけには……

 思考がループする。
 出口が見つからず息苦しさを覚える。

 俺は類の前髪をそっと指先でどけた。

 頬が痩けていた。唇は乾いてカサカサで血が滲んでいた。
 そういえば、ここ数日、まともに食事もしていなかった気がする。

 ……このままじゃ、ダメだ。
 類を守れない。
 でも、どうすればいい?
 どうすれば……

 携帯が鳴ったのは、そんな時だ。

 俺は枕元の割れたディスプレイを一瞥して、目を瞬く。
 通知されたのは、寧太の名前だった。

「寧太……」

 彼の名前は、目に眩しく映った。
 賑やかな日々が脳裏に蘇る。

 俺は携帯を手に取った。
 それから少しの間、躊躇ってから、震える指でメッセージを打ち込んだ。

――「助けてくれ」と。




『ファミリア・ラプソディア』 step.24 ナイフと長い夜 Side:蒼悟 おしまい

To Be Continued

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