ナイフと長い夜(2)
同居を始めると、いろいろな類の側面を知ることができた。
例えば……類は壊滅的に料理が出来ないこと。
「舌がピリピリする……」
ある日の夕飯に作った黒い卵焼きを口にして、類は眉根を寄せた。
たぶん、醤油と砂糖を入れすぎて焦げたのだろう。
「……蒼悟、ムリして食べなくていいからな」
俺は頷いたが、全部食べた。
その日の夜は喉が乾いてたまらなかった。
初めの頃はいろいろと試行錯誤して料理にチャレンジしていた類だったが、自分の望む味が作れないことに腹を立てて、最終的にはコーンフレークに落ち着いた。
朝は、類がコーンフレークを用意してくれた。
夜もコーンフレークになりそうだったから、俺が作った。
類は大袈裟なくらいに美味しい美味しいと言って食べたから、朝も俺が作るようになった。
コーンフレークよりも、作り置きの方が安く済んだ。
類はキッチンから撤退すると、掃除に専念してくれた。
もともと物のない家が更にキレイになったし、布団もふかふかになった。
洗濯をし忘れて、出勤前に靴下がないと焦ることもなくなった。
毎日が幸せだった。
類を抱きしめて眠り、朝は満足するまで類の寝顔を眺めて、それから仕事に向かう。
帰ると類が「おかえり」と言って出迎えてくれる。
職場でどんなに大変なことがあっても、憂鬱な気分はすぐに吹き飛んだ。
家に帰れば類に会えるのだ。
夢のようだった。
でも、そんな日々は長くは続かなかった。
* * *
ある日、シャワーを浴びて出ると布団の上で類が正座していた。
俺もなんとなく姿勢を正して彼の前に座る。
と、彼は口を開いた。
「病院で検査したっつったろ? 結果出たから、今日聞いてきた」
「うん」
「なんも病気なかった」
「そうか」
頷くと、彼は不服そうに顔をしかめた。
「……それだけ?」
「良かった」
「いやさ、そうじゃなくて……もういいぞってことなんだけど……」
何がいいのだろう。
理解が追いつかず首を傾げる。と、彼は少し頬を赤らめて怒ったような顔をした。
「エロいことしていいっつってんの」
「え……」
1テンポ遅れて、赤面が移る。
彼はニヤリと口の端を持ち上げた。
「……満更でもねぇ反応で安心したわ」
それから、ごろりと横になって俺を手招いた。
「ほら来いよ。宿代払うから」
「宿代なんていらないが」
「ホントに? 俺のこと抱きしめてから、夜こっそりトイレで抜いてんの知ってるぞ?」
「……別に、それで問題ない」
「この強がりめ。妄想じゃなくて現実のがずっといいと教えてやろう」
言うや否や類は電気を消して、俺の腕を引いた。
唇が触れる。
一瞬で舞い上がった俺は、夢中で舌を絡めながら彼の服の中に手を忍ばせた。
それでは物足りず、トレーナーの下に潜り込んで腹にキスをする。
「こら、服伸びるだろ……」
「……電気付けたい」
「それは却下」
「なんで?」
トレーナーから顔を出して、不満を訴える。
類は俺の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「あんま見て気持ちいいもんじゃねーから」
「俺はもう知ってる。だから気にしない。それよりお前の全部にキスしたい」
そう言って、仰向けに寝転ばせた類のトレーナーを引っ張り上げる。
「……ま、待て、蒼悟っ……」
と、暗闇の中、背中に見覚えのない傷跡を薄らと見た気がした。
類が服を引き下げようとするが、気になった俺は無理やり首元まで持ち上げる。
「おいっ、やめっ……」
それから俺は電気を付けて――息を飲んだ。
「…………どうして」
背中の火傷痕が増えていた。
ひとつや、ふたつではない。右肩にいくつかあった痕は、今や全身に広がっている。
躊躇いのない暴力の痕跡に血の気が引いた。
「……父親、死んだんじゃないのか」
呻くように言えば、溜息が落ちた。
「…………死んだ」
「じゃあ、誰が……」
「覚えてねぇよ」
類は気まずそうに顔を背けると、吐き捨てた。
「覚えてない?」
以前、類は家を出てフラフラしていたと話してくれた。
それを俺は額面通り、何の疑問もなく受け取っていたが……
そこでやっと、類をアパートに連れ帰ってきた日の言葉の意味を理解した。
『不特定多数とセックスしたんだよ。病気持ってるかもしれないしで、お前とはしたくねぇの』
「――類。誰と寝た?」
「……だから覚えてねぇって」
「そうか……」
俺はフラつきながら類の上からどいた。
瞬間、耐え難い衝動が込み上げてきて、枕元の携帯を壁に投げつける。
携帯のカバーが割れて甲高い音が立った。
類がびくりと震えた。
生まれて初めて覚えた殺意だった。
その見知らぬ相手を殺してやりたいと心底思った。
胃液が沸騰したみたいに吐き気が込み上げてきて、視界が揺れている。
俺は歯を食いしばり荒い呼吸を繰り返すと、壁に背を預けて座り込んだ。
膝に額を押し付け呼吸を引きつらせる。
「……ぅ」
「蒼悟……?」
殺してやりたい。
殺してやりたい。
殺してやりたい。
類を傷つけた相手を。
――類は幸せに暮らしているだなんて楽観視していた自分を。
「ごめん、類。ごめん……」
「……なんでお前が謝ってんだよ」
間に合ったはずだった。
彼の父親が死んでしばらくせず、俺は一人暮らしを始めていたのだから。
類に連絡をすれば良かっただけだ。一言、「一緒に住もう」と。
それなのに、俺は。
「……蒼悟」
名前を呼ばれて、顔を持ち上げる。
ぼやけた視界に類の申し訳なさそうな顔が映る。
どうしてお前がそんな顔をするんだ。
お前はいつだって何も悪くないのに。
俺は彼を抱き寄せた。
両足の間に挟むようにして、首筋に顔を埋める。
「……類。ここにいてくれ。ずっと。……ここから出ないでくれ」
震える声で請うた。
類は宥めるように俺の背を撫でた。
「……いるよ。約束する。だから泣くなよ」
応える代わりに、抱きしめる腕に力を込める。
「ごめんな、蒼悟。お前のこと傷つけたかったわけじゃないんだ……本当、ごめん……」
類はずっと謝っていた。それが嫌でたまらず、俺は彼の唇を塞いだ。
久々の口付けは、涙の味がした。
* * *
その日を境目に、少しずつ類の様子がおかしくなった。
「最近、すげぇリアルな夢見てさ。現実と夢の境目がわかんなくなるっつーか……気分悪ぃ」
深夜、何度も水を飲みに起き上がる類は、心配する俺に苦笑をこぼして肩を竦めた。
「バイトしよっかな。暇だとろくなこと考えねぇし」
類は親戚の家で暮らすと同時に寧太のところのバイトは辞めていた。
「学校は? 2学期、もう始まってるだろ」
「いいよ、もう。……勉強する理由、なくなっちまったから」
彼は空になったグラスをシンクに入れると、ポツリと言う。
「それに、散々心配かけて、どのツラ下げてニャン太たちに会えばいいのかわかんねぇよ」
ついで微笑むと、俺の肩を軽く叩いた。
「働いて、お前と生きるわ」
その言葉を俺は嬉しく思った。
でも、どことなく不安は拭えない。
類は夜中に「怖い」とよく訴えるようになった。
何が怖いのかはわからないらしい。
服が張り付くくらいびっしょりと冷や汗をかいて、震えていて、カーテン越しに朝日がぼんやりと見える頃、やっと眠りに落ちた。
彼はバイトの面接をキャンセルした。
だんだんと食も細くなって、あまり笑わなくなった。
ある夜、目覚めると隣に類がいなかった。
飛び起きて当たりを見渡すと、彼は暗闇の中、ラックを漁っていた。
「……何してる?」
問いかけると、彼はこちらを見ずに答えた。
「親父が泣いてる。また、切ったんだ……消毒してやんねぇと」
消毒液を探しているようだった。けれどそのラックは歯磨き粉のストックだとかそういったものしか入っていないし、うちにはそもそも消毒液はない。
「類。……類。夢だ」
肩を揺すると、彼は呆然と俺を振り返った。
「夢?」
彼はゆっくりと瞬きをして、それからくしゃりと泣きそうな顔をした。
「……ああ、そっか。親父、死んだんだっけ」
そんな日が、何日も続いた。
彼の混乱の度合いには波があって、料理を手伝ってくれるほど元気がある日もあれば、ここが何処か束の間認識できずに慌てている時もあった。
類は壁のざらめをよく撫でるようになった。
そうやって現実と夢に区別をつけているようだった。
類が夢に囚われてしまう。
俺の不安は日に日に大きくなり――決定的な出来事が起こった。
9月の終わり、彼は手首を切った。