ナイフと長い夜 Side:蒼悟(1)
俺は高校を中退した後、足の手術で入院した時に出会ったオーナーのレストランで働いていた。
学校を辞めて就職したいと両親に話していたのを隣のベッドで聞いた彼が、「うちで働かないか」と声をかけてくれたのだ。
掃除、皿洗い、道具類の片付け……まだ包丁は持たせて貰ってはいない。
慣れない作業に手間取り、先輩たちには何度もどやされた。
それでも一応は給料を貰い、俺はすぐに家を出てワンルームの小さな部屋を借りた。
全ては類を父親から離すためだ。……類はあの父親といると傷付く。俺はそれが嫌だった。
けれど、しばらくしてあの父親は亡くなり、類は今、親戚の家で暮らしていると連絡があった。
俺は目標を失ったが、類が幸せならそれでいい。
『もしも類ちゃんから連絡あったらメッセージください』
寧太から連絡があったのは、8月の中頃。
俺はさしてそのメッセージを気にしなかった。
また4人で会おう、と約束したばかりだったから。
まさか類が親戚の家を出ていたなんて思いもしなかったのだ。
* * *
学生と社会人には接点がないと改めて思う。
何の理由もなく類に会えた高校時代が懐かしい。
幾度か携帯を手にしたが、連絡しようにも話題がなかった。
類に会いたい。声を聞きたい。……抱きしめたい。
街中やレストラン、それから混み合った電車の中で、細身の男を見ると類の影が重なって胸が鳴った。
――そして、8月も終わろうとしていた頃のこと。
うだるような熱い夜、俺は街中で類を見かけた。
初めは会いたいと強く願い過ぎているせいで、幻覚を見たのかと思った。しかし、彼の後ろ姿を見間違えるはずがない。
夏の制服を着た彼は、見知らぬ男と二人で歩いていた。
「類」
名前を呼んだ俺を振り返ったのは、やはり類本人だった。
「蒼悟!?」
彼はとても驚いたように目を見開き、それから気まずそうに隣の男を見てから、彼に平謝りするとこちらに駆けてきた。
「お前、何してんの。こんなとこで」
「仕事の帰り」
「そっか。頑張ってんだな」
類が微笑む。
それだけで俺は胸が苦しくなるほど嬉しくなった。
「……足の調子、どう?」
「問題ない」
「そうか」
俺は類が来た道をチラリと振り返った。
一緒にいた男の姿は人ごみに紛れてもう見えない。
「……さっきの人、いいのか?」
「え? あ、ああ、うん。知り合いってわけでもねぇし」
「ふぅん」
類が歩き始める。
俺はその隣に並ぶ。
「蒼悟……なんか、キリッとしたな。すっかり社会人だ」
「自分ではわからないが」
沈黙が落ちた。
ふたり、目的地もなく人の流れをなぞる。
俺は類の横顔を見た。
夢ではなく、本当に類がいる。
そう思うと、彼以外の何もかもが目に入らなくなった。
「……ってかさ、ずっと、お前に謝らなきゃって思ってて――」
決意めいた眼差しでこちらを見た類の腕を引くと、俺は抱きしめていた。
人前だとか、道のど真ん中だとか、そういう常識的なことは頭からすっかり抜け落ちていた。
「お、おいっ、ここ外……っ」
「会いたかった」
耳元で囁く。
人が舌打ちして避けていく。
類は押しやろうとして無理だと悟ったのか、そのまま抱きしめる俺を引きずって路地裏に移動した。
それから、軽く俺の背中を叩いた。
「……って言う割には、全然連絡よこさなかったけど」
「連絡はした」
「ごめんと就職の連絡だけな」
「他に何を話せばいいのかわからなかった」
腕の力を緩めると、類は息継ぎをするように顔を持ち上げた。
「ったく、お前らしいよ」
類を見ていると、離しがたい、と思う。
ここで手を放したら、サヨナラを言ったら、次に会えるのはいつかわからない。
「……このまま持って帰っていいか?」
思わず、そんな風に問い掛けた。
類は呆れたように目を瞬かせてから、屈託なく笑った。あの、眩い笑顔で。
「いいけど、エロいことはなしな」
* * *
アパートの玄関扉を開けると、俺は類を抱きしめた。
こちらを振り返る彼の頬を両手で包み込み、唇を塞ぐ。
「ん、んんっ、ちょ、蒼悟……こらっ……んんっ……」
舌を忍びこませようとしたけれど、類は頑なに唇を開かなかった。
揉め合うようにして、狭い玄関で転ぶ。
類を組み敷いて、再び唇を追えば思い切り顔を押しやられた。
「エロいことはなしだっつったろ!」
少し首が痛くて、冷静さを取り戻す。
キスもエロいことに入るのだろうか。
そもそも……
「……なんで?」
拒絶されたのは初めてで、戸惑う。
問いかけると、彼は少し気まずそうに目線を逸らした。
「……お前以外ともヤッたから」
「だから?」
ますます、わからない。
問いを重ねると、類は傷付いたような顔をした。
「だから、つまり……」
彼は視線を彷徨わせて、瞼を閉じる。
ついで、大きく息を吸うと躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「不特定多数とセックスしたんだよ。病気持ってるかもしれないしで、お前とはしたくねぇの」
なるほど、と頷きつつも、
「……キスもダメか?」
請う。
別にセックスがしたいわけじゃない。
ただただ、類に触れていたいのだ。
類は奇妙な顔をした。
「お前、話ちゃんと聞いてた? よく俺にキスしたいとか思えるな?」
「???」
よくわからないが、類は呆れたようだった。
俺はどんな時だって類に触れたいし、傍にいたい。数ヶ月、我慢して離れていたせいか、今、彼が帰ると言いだしたら頭がおかしくなると思った。
「……とりあえず、しばらく諸々なし。どうしてもっていうならゴム越しに口でしてやってもいいけど」
俺は首を振った。
類がしたくないことはしない。
けれど。
「抱きしめるのは?」
不可と可のボーダーはしっかりと見極めておきたい。
類のしたくない理由を考えるに、キスはダメでも抱きしめるのは平気なはずだ。
彼は少し気恥ずかしそうに顔を背けた。
「……それは、まあ……いいけど」
俺は類を力一杯抱きしめた。
シャツ越しに感じるぬくもりが余りに愛おしくて、目眩がする。
胸いっぱいに類の香りを吸い込んだ。
頬に、首筋に、耳にたくさん唇を押しつけた。
彼が嫌がる素振りはなく、俺は胸を撫で下ろした。
その日の夜はふたりで身体を丸めてひとつの布団で眠った。
類は家に帰らず、翌日も俺のアパートにいた。
その次の日も、その次の次の日も……
どうやら、父親が亡くなってから一緒に暮らしていた親戚とはそりが合わず、家を出て、フラフラしていたらしい。
それを聞いた時、類にもうまくいかない相手がいるのだと少し驚いた。
俺は類と一緒に暮らし始めた。
奇しくも、当初の目的は果たされたのだ。