正解と不正解(6)
* * *
それから1年半くらい、俺と類の奇妙な関係は続いた。
バイトがない時や、寧太たちがいない時には、類を家の最寄り駅まで送ったり、逆に類がうちに来たりした。
ただ漫然と一緒にいるだけのこともあったし、恋人みたいな時間を過ごすこともあった。
「お前は犬か」
いつもついて回る俺に、類はそう呆れたりしたけれど、彼に飼われる犬になるなら悪くないと俺は本気で思っていた。
* * *
そして……高校2年の、冬のある日のこと。
俺は類の家の最寄り駅までやって来ていた。
「んじゃ、また明日な」
改札を出た類が俺を振り返って片手を上げる。
「ワン」
俺の応えに、類が奇妙に顔を歪めた。
「え? は? いや、なに……?」
「……犬みたいって前に言ってたから」
「そのネタを今!?」
彼は呆れたように眉根を寄せてから、眉間を指先で揉んだ。
「面白くなかったか」
「まぁ、うん……まずは……その真顔で冗談言うのやめようか」
類はよく笑うが、笑わせるのはなかなかに難しい。
踵を返した俺は腕を組んで、冗談を言う顔というものを思案する。と、
「あれ、親父……?」
背後から驚いたような声がして、俺は振り返った。
「……どうしたんだよ、今日は早いじゃん」
訝しげな声をあげたかと思うと、類が背の高い男に駆け寄っていく。
その後の会話は聞こえなかった。
ここ最近は父親の話を聞いていなかったが、多分、彼らの関係が変わったということもないだろう。
胸の鼓動が歪に速まる。
立ち止まっていた俺は、歩いてきた人にぶつかって我に返った。
気を取り直してホームへの階段を降りれば、各駅の電車が止まっていた。
もう数分もせず駅を出るようだ。
俺は気持ちを振り切るようにして、電車に飛び乗った。
しかし……気になる。
彼らの後を付けたってどうにかできるわけじゃない。
類と父親の関係だ。
俺が間に入ることを彼は望んでいない。
だが……
脳裏に背中の火傷痕と、あの夜の情景が過る。
気付けば俺は、電車の扉が閉まる直前にホームに戻っていた。
お下がりください、と注意され、慌てて中央へ移動する。背後で電車が走り出す。
俺は逡巡した後、おずおずと改札を出て、以前歩いた道をなぞった。
* * *
尋常でないことが起こっているのは、すぐにわかった。
家の近くまでくると、柔らかな薄闇の空には場違いな荒々しい声と激しく低い物音が響いてきたからだ。
「……っ」
玄関のチャイムを押す。
もちろん反応などない。
ドアノブを回せば、鍵は空いていた。
扉を押し開く。
家の中は真っ暗だった。
奥から不明瞭な怒鳴り声と何かが倒れた重い音、それからガラスが割れたのだろう甲高い音が聞こえてくる。
俺は靴を脱ぎ、恐る恐る明かりのない廊下を進んだ。
板張りの廊下を軋ませながら歩いていくと、部屋から一升瓶が飛んできた。
中を覗き込めば、類と父親が掴み合っている。
俺は息を飲んだ。
類が必死に掴み留めている父親の手には、裁ちバサミが握られている。
「もう十分だろっ!? これ以上やったら死んじまうよ!」
必死で止める類に、父親は言葉ではない何かを喚き返した。
床に点々と飛び散る、赤。
アルコールと鉄の混じったような臭いにあてられて、体がふらつくのを感じた。
類と一緒に止めに入るべきだということはわかっていたが、恐怖に竦んで思考が霧散していく。
知れず半歩退けば、踏みつけた何かの破片が小さな音を立てた。
瞬間、類の視線がこちらを向いた。
「なっ……! なんで蒼悟がここにっ……」
突然のことに類の力が緩んだのか、父親は彼の手を振り払うと、ハサミを高々と振りかぶった。
蛍光灯に照らされたその刃先が鈍く輝く。
その刹那、脳裏を白い背中とそこに浮かぶ赤黒い火傷痕が過った。
俺は後先も考えず、咄嗟に床を蹴った。 「類……!」
振り下ろされた腕を受けとめるようにして父親の左腕に飛びつくが、尋常ではない力を止めることはできず、壁際の箪笥へ弾き飛ばされる。
「っ……!?」
ぶつかった膝に鈍い衝撃が走ったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
俺はすぐさまもう一度、止めようとし……その時、背後から近付いていた類が、父親からハサミを取り上げ、遠くへとそれを投げ捨てた。
廊下を滑り、ハサミは暗闇に吸い込まれていく。
「親父。……親父、落ち着け。な?」
類は努めて穏やかに父親に声をかけた。
ゆっくりと背を撫でる。
と、彼の父親は子供みたいに泣いて崩れ落ちた。
「あーあ、またそんなにやっちまって……痛いだろ……」
言われて俺は気付いた。
父親の右腕にいくつもの抉れた傷が走っていることに。
彼は類を害そうとしたのではなく、自分を傷付けようとしていたのだ。
父親を抱きしめて宥める類を、俺は呆然と見つめることしかできなかった。
* * *
靴を履き、中庭に面する縁側で待っていると、しばらくして類がやってきた。
「……もう、いいのか」
隣に座る類に問う。
彼は小さく頷いてから、少し力なく笑った。
「……おう。落ち着いたよ」
俺はちらりと類を見る。
どこかにぶつけたのか、類の手の甲が赤く腫れていた。
「ってか、さっきおもっくそぶつかってたけど……お前、ケガとかしてねぇ?」
「……してない」
「良かった」
ホッと胸を撫で下ろした類は、ポケットから取り出したタバコの箱を軽く叩いた。
1本飛び出したシガレットを口にくわえる。
「タバコ……」
指摘すると、彼はニヤリと笑った。
「少しだけ、目つぶっとけ」
慣れた手つきでくわえたタバコに火を灯す。
辺りはすっかり暗くなっていて、部屋から漏れ出る明かりに白い煙が揺れた。
「……親父さ、やっと仕事見つけて頑張ってたのにまたクビになっちまったんだって」
煙を吐きながら、類が言った。
「俺もバイトしてるし、少しずつ復帰してけばいいって言ってんだけど、本人は焦っちまうみてぇで」
携帯灰皿に灰を落とし、類はどこか遠くを見やる。
俺はその横顔に静かに問いかけた。
「……類がそんなに頑張る必要はあるのか?」
「どういう意味だよ?」
「家を出るとか……」
言えば、彼は困ったように眉根を下げた。
「あんな状態の父親をひとりにすんのか?……親父は俺のたったひとりの家族なんだよ」
「……ごめん」
謝りながら、俺は家族とはなんなのだろう、と思う。
そんな疑問、類に会うまで考えたこともなかった。
俺にとってそれは、いつでも傍に、当たり前のようにあるもの……空気みたいに透明なものだった。
その当たり前は、とても幸せなことなのだろう。
くゆる煙が鼻先をくすぐる。
俺は類を見詰めながら、このまま彼を誘拐してしまおうか、なんて非現実的なことを考えた。
類が眠っている内に、戻れないくらい遠い場所に移動して、そこで彼を軟禁してしまおう。父親のことを諦めるまで。
そうすればもう彼は傷付けられることはない。……類は俺を恨むだろうが、そんなもの些細なことだ
問題は、それから先をどう生きるかだろう。
小遣いの残りと貯金の金額を計算してみた。
あんな少額じゃ、ひと月だって生きられはしない。
そもそも行方をくらますこと自体が無理なことだ。すぐ親にバレるだろうし、移動の途中で連れ戻されるのがオチだろう。
冷静に自分の持っている物を上げてみるが、今の俺に出来る事なんて何もなかった。
「……心配かけて悪かったな。もう大丈夫だから。気をつけて帰れよ」
タバコを1本吸い終わると、類は部屋に戻っていった。片付けをする音が聞こえてくる。
俺も彼の家を後にした。
早く大人にならなければ。
そして、類を……この家から連れ出さなければ。
川沿いの道を歩きながら、俺はひとつの結論に辿り着いていた。
冷たいと言われたって構わない。
もう類をここには置いておけない。
逸る気持ちに呼応するように、耳の奥で心臓が強く鳴っていた。
……右足のケガに気付いたのは、家に帰ってからのことだ。
『ファミリア・ラプソディア』 step.23 正解と不正解 Side:蒼悟 おしまい
To Be Continued