兄とコーヒー
1週間後。
僕は兄に指定されたホテルの中のカフェにやってきていた。
僕は無意味にアイスコーヒーに刺さったストローを回す。氷は溶けてしまって、コーヒーはすっかり薄まってしまっている。
類さんの連絡先は、財布の中にしまってあった。
でも連絡はしていない。1週間考えても、答えは出ていない。
僕は類さんが好きだ。
でも、彼には僕の他にも愛している人がいる。
僕と会わない間、類さんは帝人さんとキスをしているんだろうか。ニャン太さんを抱きしめているんだろうか。それとも蒼悟さんと……
穏やかならない気持ちになって、僕は本日何度目かのため息をついた。
離れているから、ザワつくのだろうか。いっそ一緒にいればこうはならないのか?
僕は類さんを独り占めしたい。
でも、だからってニャン太さんたちと離れて欲しいとも思わない。誰にも彼らのコミュニティを壊す権利はないのだ。
類さんを諦めるか。
彼らと一緒に……いや、彼らごと類さんを愛するか。
突きつけられているのは、その2択。
選べない。
わからない。
いっそ忘れてしまいたい。
でも、心の中にはずっと類さんが棲んでいて、日を追うごとに彼の存在が大きくなっていく……
諦めるには、もう手遅れだった。
「伝、久しぶりだな」
――声に僕はハッと我に返る。
待ち合わせをしていた兄が、対面のソファ席に鷹揚に腰を下ろした。
「兄さん……げ、元気そうだね」
時計を見れば、言いつけられていた時間ピッタリだった。
彼は呼びつけたウェイターにアイスティーを頼むと、こちらに向き直った。
その鋭い眼光に、僕はギクリと背を正す。
「そ……それで……話って、何?」
「実家に戻ってこい」
「え……」
予想外の言葉に、僕はまじまじと兄を見た。
「な、なんでそうなるの? 2ヶ月前に、院に上がったばかりなんだけど……」
「大学の教授になりたいだとか、母さんに言ったそうだな? そんな見えすいた嘘をよくも言えたものだ」
「……う、嘘じゃないよ」
「嘘だ」
兄は僕の言葉を一刀両断した。
「お前は進学するほどの情熱を学業に持ってはいない。ただ就職に失敗して、仕方なく学校に残っているだけだ」
「っ、そ、そんなことっ……」
「否定できるのなら言ってみろ」
「……」
僕はグラスを両手で包み込むと、目線を落とした。
進学するに際して、僕は両親に学費の工面を頼まなかった。後ろめたく思ったからだ。
ということは、兄は正確に僕の虚心を見抜いている。
反論など有るわけがない。
兄は黙りこくる僕に、大仰にため息をついた。
「……お前は昔からそうだ。義務や責任から逃げてばかり。いい加減、その薄ぼんやりとした生き方を止めたらどうだ」
「だからって、どうして実家に戻れなんて……」
「こっちで就職して結婚でもすれば、その無責任な生き方もマシになるだろう」
「け、結婚……!?」
「ああ。父さんとも相談して、見合い相手は見つけてある」
「ま、待ってよ。僕には無理だ!」
兄が見つけた相手と結婚なんてできっこない。
僕は男の人が好きなのだから。
「ああ。お前だけでは結婚までこぎ着けるのは無理だろうな。だから私が用意した」
「ち、違うんだ。僕は……僕は……」
ズボンを握りしめた指先が冷たくなっていく。
兄が来ると言った時、不穏な気配は感じていたが……まさか、結婚だなんて。
僕は口の中に溜まった唾を飲み込む。
いつか、こんな日がくることは分かっていた。
でも告白するのが怖くて、僕は大学にかこつけて実家を離れたのだ。
新天地なら、きっと誰かが僕を理解してくれる、受け入れてれる、愛してくれる……そんな受け身な夢を抱いて。
そして4年の大学生活を終えた僕は、逃げ出したあの頃と何ひとつ変わっていない。
好きな人が出来ても、答えを先延ばしにして耳も目も塞いで逃げている。
「何が違う?」
「僕の意思を無視して結婚なんて、おかしいよ……」
「お前の意思を尊重した結果が『今』だ。無駄以外の何ものでもない」
「そんな……」
「いいか、伝」
兄は自身の眼鏡の位置を指先で直すと、苛立たしげに眉根を吊り上げた。
「劣る者は幾ら頭を捻ったところでまともな道筋ひとつ見い出せない。
家族として、兄として、俺がお前を導いてやると言っているんだ」
「……確かに兄さんに比べたら、僕はどうしようもない人間だよ。でも、僕は僕なりに頑張ってるよ」
「結果を伴って初めて頑張ったと言える。お前はただ言い訳をしているだけだ」
何も言い返せなかった。
兄はどこまでも正しい。息苦しいほどに。
何て言い返せばいい?
どうすれば彼は僕を1人の人間として扱ってくれる?
兄を見つめ返す。
鋭い眼差しに、僕はすぐに目線を落とした。
無駄だ。
だって僕は未熟だ。
「……分かった。分かったよ。僕が悪かった」
これ以上、鋭い台詞を聞きたくなくて僕は降参した。
自分の考えを述べれば、その10倍20倍の口撃で叩き潰される。
もうこりごりだと思った。わざわざダメさを指摘されなくても、僕自身が1番わかっている。
「実家の近くで仕事に就けばいいんでしょ。わかったよ。
でも、結婚については……無理なんだ。だから、お願いだから、お見合いだけは押し付けないで欲しい。それ以外は従うから」
「駄目だ。男は家族を持って一人前だ」
「そういう話じゃないんだって」
手のひらに汗が滲む。
胃が引っくり返りそうだ。
真実を告げれば兄は怒るだろう。わかっている。だから、今まで言い出せなかった。
でも、こればっかりは……理解して貰わないと困る。
「僕は……僕は、ゲイなんだよ」
絞り出すようにして、告げた。
どんな仕事に就いたっていいが、結婚はひとりでするものではない。
相手を不幸にすることだけは絶対に避けなければ。
「なに?」
珍しく、兄が驚いた顔をした。
僕は少しだけ溜飲が下がるような気持ちになって繰り返した。
「僕は男の人しか愛せないんだ」
静寂。
ウェイトレスか兄のアイスティーを持ってくる。
彼はグラスに口を付けてから嘆息した。
続いて、忌々しげに僕を見やる。
「何を言い出すかと思えば……また嘘を重ねるつもりか」
「嘘じゃないよ。本当なんだ。小さい頃からずっとそうだった」
「女に相手にされない言い訳だろう」
「違うよ。性癖なんだ」
兄は眼鏡を取った。それから眉間を指先で揉むようにして、また掛け直す。
大仰なため息。
続いて彼は、おもむろに伝票を手に席を立った。
「……俺からの話は以上だ」
「こ、恋人だっているんだよ!」
僕は爪が食い込むほど手を握りしめると、声を荒げた。
「彼とは、か、体の関係もある!……女の人に相手にされないからって、男が男に抱かれたりできないでしょ!?」
「おぞましいことを言うな……!」
兄が激高する。
周囲からの視線に彼はハッとして、空咳を落とした。
それから苛立たしげに目を細め、渋々と再びソファに腰を下ろす。
「おぞましいって……今の時代、男が男を愛したって珍しくもなんともないよ」
「そういう者がいるのは承知している。だが、お前は違う」
「違うって、僕の何を見てそう言うの?」
「全てだ。お前のことは赤ん坊の頃から知っている」
「僕らはまともに話したこともないのに?」
兄のこめかみがピクピクと震えた。
きっと人目がなければ拳が飛んできていたに違いない。
彼は怒りに頬を震わせると、努めて声のトーンを落として言った。
「……とにかくお前は同性愛者ではない。つまらない思い込みだ。女と付き合えば気の迷いだったと気付く」
「……いつもそうだ。そうやって勝手に何もかも決めつける。いつも自分が一番正しいって思っていて、僕の言葉になんて耳を傾けてくれない」
言葉と共に、情けなく惨めな子供時代が脳裏に蘇ってきた。
他の子たちのように女の人を好きになれない戸惑い。
それがいつか家族に、知人に知られるのではといつも怖かった。
僕は間違っている。僕は気持ち悪い。こんな僕なんて、誰も愛してくれやしない。
「兄さんは自分と違えば、頭ごなしに否定する。それで僕がどんなに――っ」
言葉の途中で僕は息を飲んだ。
……ああ、そうだ。僕も同じだ。
理解出来ないからって、その背景すら知ろうともせず、僕は類さんたちを否定した。
頭ごなしに無理だと拒絶した。
誠実に話してくれた彼らと向き合おうとせず、今もまだ逃げ続けている。
「伝?」
「……兄さんのいう通り、僕には確かに逃げ癖があるよ。学校に進学したのも、就職に失敗したからだ。
ちゃんと自分の人生に向き合わなくちゃならないと思う。
それは認めるし、反省してるよ。もっと……責任を持って生きられるように努力する」
「それでいい。お前は俺の言うことを聞いていれば――」
「だから、僕は中退しない」
言葉を遮って、僕は言った。
「なんだと?」
兄が信じられないと言うように、僕を見る。
こんな風に真っ向から、兄に反抗したのは初めてかもしれなかった。
「自分で進学するって決めたんだ。卒業までの2年間、真剣に勉強する」
初めは「先延ばし」のためだったとしても、それで終わらせるかどうかは僕次第だ。
「つまり、だから、何が言いたいかっていうと……これは僕の人生だ。僕が選択して、切り開いていくべきものだ。だからもう口出ししないで欲しい」
「……社会に出たこともない奴が人生を語るな。何も知らないくせに」
「自分の人生を自分が語って何が悪いんだよ」
「お前の人生には語るほどの価値などない」
知れず口元が歪む。
同じだ。ちょっと前まで、僕も兄と同じように思っていた。
僕の人生に価値なんてない。
僕はツマラナイヤツだって。だから、誰からも愛されないって。
でも、類さんはこんな自分を好きだと言ってくれた。魅力的だと言ってくれた。
「価値を認めてくれないなら、放っておいてよ」
躊躇うことなく、ハッキリ告げる。
「兄さんにとって僕はいらない人間だ。なら、それこそ構わなくたっていいじゃないか」
「子供のような駄々をこねるな。お前も洞谷家の人間としての自覚を持って――」
「知らないよ、そんなもの。どうでもいい」
「……っ!?」
僕は立ち上がった。
それからコーヒー代をテーブルに置く。
「僕は僕の価値を認めるようになりたい。そういう人たちと生きたい」
息苦しい思いも、ビクビクする生き方も、こりごりだ。
「伝……!」
僕は足早にカフェを出た。
姿勢を正して、無理やり口角を持ち上げる。
強い西日を手で遮って、燃えるような空を見上げた。
変わりたい、と強く思う。
変われるだろうか、と不安で押し潰されそうだ。
でも、たぶん――これが初めの一歩なんだと思う。