ファミリア・ラプソディア

ピアスと家族(4)

「おまっ……!」

 類さんが焦ったように唇を手の甲で拭う。

「ボクら、こういう関係なんだ」

 類さんが言い渋っていたこと。
 兄弟よりも仲のいい関係。キスするような――

「……ええっと、大丈夫? デンデン」

 ニャン太さんの言葉に、止まっていた時間が流れ出し、さぁあああっと音を立てて血の気が引いた。

「すっ、すみませんでした……!!!」

 僕は反射的に席を立って、大理石の床に土下座した。

「デンデン!?」

「お、おいっ、何してっ……」

「知らなかったこととはいえ、僕はッ、最低なことをッ……!」

 額を床に打ち付ける。
 木製の床とは違って、ズンと重い衝撃に目眩がした。

 僕はバカだ。大バカだ。
 どうして類さんにパートナーがいないと思い込んでいたんだろう?

 こんなに素敵な人なのに、独り身なわけがないじゃないか。
 それを僕は自分に都合良く解釈して、パートナーと暮らす部屋にまで上がり込んで、淫らな行為に及び、図々しいことに食事まで一緒に……
 とんでもない修羅場に自分は身を置いていたというわけだ。

「顔上げろよ、伝。なんも謝る必要なんてない」

「そうだよ! 別にボク、責めてるわけじゃなくてっ……!」

 類さんがしゃがみこんで僕の身体を起こそうとしたけれど、僕は断固として額を床から離さなかった。

 情けないことに泣いていたからだ。
 類さん酷いです。騙すなんて酷いです。好きって言ってくれたの嘘だったんですか。
 そんな恨み言が口を突いてでそうになる。浮気されたニャン太さんの方が傷付いているというのに。

 どうして僕はこうなんだろう……。
 やっと、好きな人と両想いになれたと思ったのになぁ。
 ひとりで舞い上がって、本気にして、バカみたいだ……。

 鼻をすすると、すっとティッシュ箱が横から差し出された。

「伝くん。類は君のこと、本当に好きだよ。遊びじゃない」

 この声は、帝人さんだ。
 目を見開くと、ぼやぼやした視界に大理石の模様が映った。

「ただ、君を好きで、君を手に入れたくて、言い出せなかったんだ。
……もう3人もパートナーがいるなんて言ったら、普通の人は身構えちゃうだろう?」

「さっ……!?」

 勢いよく頭を上げた僕は、テーブルの裏に頭を殴打してひっくり返った。

「わぁあっ! デンデン!?」

「大丈夫か……!?」

 類さんが抱き留めてくれる。僕は呆然と覗き込んでくる3人を見上げた。

「ニャン太さんだけじゃなくて、他のふたりもそういう……?」

 確かに、ずっと彼らは『ボクたち』『俺たち』と言っていたけれど……

「俺たちは、前からお前のことを知っていた」

 少し離れた所で、しゃがみ込んだ蒼悟さんが言う。
 その短い言葉を補うように、ニャン太さんが続けた。

「うん……キミのこと類ちゃんからずっと聞いてたんだよ。去年の夏かな。好きな人が出来たって」

 僕は類さんを見た。

 ティッシュで諸々拭いてくれた彼は、とても不安げだ。
 なんで、そんな……あなたが雨の日に捨てられた子犬みたいな顔をしてるんですか。

 ズキズキとした頭の痛みが引いていくのと一緒にだんだんと混乱も落ち着いて、やっと現状が読めてきた。

 類さんには、パートナーが3人もいる。
 そして彼らは僕が類さんと寝たことを怒っているわけではない。かと言って、自己紹介をしたということは別れるつもりもないということだ。

「類さんは……僕のことを4番目に好きってことですか……?」

「序列なんてねぇよ」

 それはみんな一緒でみんないい、的な……?

「っつっても、わけわかんねぇよな。ごめん。普通じゃない自覚はある。でも……あんたのこと本気で好きなんだ。一緒に暮らさないか」

「む、無理ですよ」

 僕は反射的に言っていた。

「……なんで?」

「なんでって――だって、普通、愛し合うって1対1の関係でしょう?」

「……社会規範が愛を定義するわけじゃないだろ」

「それは、まあ、そうですけど……」

 社会規範が違えば、重婚も同性婚も出来るのは理解している。今では犯罪的な結婚だって――例えば前田利家と結婚した時、まつは10歳だったと言われているし。

「でも、僕はそんな愛し合い方知らないんですよ」

 だから、求められても困る。
 いや、恋人なし=年齢だから愛し合い方すら知っているとは言えないだろう。そんな僕に、彼らの愛の形はハードルが高すぎる。

 だって、僕は類さんが好きなのに、類さんは僕の他にも好きな人がいるなんて……おかしいじゃないか。
 ニャン太さんも、蒼悟さんも、帝人さんも嫉妬しないのか?
 自分以外の相手と類さんが仲良くして平気なのか?

 そんなことを考えていると、

「……俺たちが身を引くしかないんじゃないかな」

 帝人さんの穏やかな声が、静寂を破った。

「え……?」

 僕は耳を疑った。

 身を引くって……そんな簡単に離れられるのか? 家族なのに?

「ちょっ、ちょっと待ってよ! なんでそう極端な発想になるの!?」

「類は伝くんのことが大好きなんだよ」

「ボクらのことだって大好きだよ!」

「知ってるよ。だけど、俺たちがいると伝くんが類と一緒にいられないんだ。なら、そうするしかないだろう? オレは類の気持ちを大切にしたい」

「そんなのわからないじゃん。話し合って、理解してもらって、そしたら……っ」

「ニャン太のいう理解って、押しつけだよ。
 伝くんには伝くんの愛し方があるんだ。……俺たちにあるように」

「それは……でも……」

 ニャン太さんがシュンと項垂れる。

「俺は――」

「だ、ダメですよ!」

 類さんが何か言う前に、僕は思わず叫んでいた。

「家族なんでしょう? 身を引くなんて絶対にダメです!」

「デンデン……」

 僕がショックを受けるのと、彼らがバラバラになるのは別問題だ。

 僕は類さんが好きだ。
 しかし、じゃあ、彼を独り占めするために、ニャン太さんたちを遠ざけたいかと言えば、答えはノーだ。

 類さんは彼らを『家族』と言った。
 手放せるなら、そもそも僕に紹介したいだなんて言わない。

「それなら、俺たちと一緒に類を受け入れてくれる?」

 帝人さんの問いに、僕は押し黙った。

 考えを巡らせるが、その『一緒に』がわからないのだ。想像できない。僕の中で、愛し愛される関係性はやっぱり1対1で、1対複数を考えると、どうしてもドロドロした、修羅場なイメージが付きまとう。
 古今東西、後宮大奥ハーレムでは、寵愛を得るべく権謀術策を駆使して、血で血を洗う争いが……  いや、類さんは皇帝でもなんでもないけれど。

 とにかく、目の前の彼らのように仲良くしていたという話なんて聞いたことがない。
 だから彼らと一緒に、平和的に類さんを愛せるか分からない。
 それに類さんが他の人と仲良くしていたら、当たり前だけど、僕は悲しくなると思う。

「少し……考える時間を下さい」

 僕はフラフラと立ち上がると、椅子に戻った。

 気遣わしげな沈黙が落ちる。

 やがてみんなが席に戻ると、僕はプレートに残っていた食事を口に詰め込んだ。
 お肉もクロワッサンも、野菜も、変わらずに美味しい。しかし、さすがにもう味わう余裕はない。

「…………ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 完食すると、僕は手を合わせて深々と頭を下げた。
 それから、席を立った。

「今日は帰ります。お邪魔しました……」

「伝……」

 類さんが僕の手を掴む。
 それを僕は、断腸の思いでそっと外した。

「今は、まだ……考えがまとまっていないので……」

 背を向ける。
 それから類さんの部屋に置きっぱなしだった財布と携帯を取ると、玄関に向かった。

「洋服は洗ってお返しします。あ、僕のは捨ててくれて構いませんから。あと、その……みなさん、気を遣わせてしまってごめんなさい」

 見送りに来た類さんの顔を見ず、僕は靴をつっかけると逃げるように玄関を出た。

 ……彼に幻滅できていたらどんなに良かっただろう。
 ニャン太さんたちに敵意を向けられていたら、どんなに問題はシンプルだっただろう。

 これは価値観の問題なのだ。

「どうしたらいいんだよ……」

 豪奢なマンションをとぼとぼ歩きながら、僕は誰にともなく呟いた。

* * *

 伝が出て行ってしばらくしてから、類は肩を落として食卓に戻った。

「あれが普通の反応だよ。類」

 帝人が大皿に残った食事を取り皿によそいながら言う。
 類は椅子に乱暴に腰掛けると、背もたれに身体を預けた。

「……わかってる」

「本当にわかってるのかな……。前から言ってるけど、彼を巻き込むのは可哀想だよ。俺たちとは事情が違うんだ」

 あくまで穏やかな声と表情で帝人は続けた。
 類は前髪をかき上げると、深く溜息を漏らす。

 静寂。
 それを破ったのは、寧太の椅子から立ち上がる音だった。

「デンデンと話してくるよ」

「ニャン太。余計なことはしないよ」

 帝人の声を無視して、寧太は類を見た。

「類ちゃん、連絡先交換したの?」

「……してない」

「なら、教えてこないとね」

「それなら俺も――」

「ボクに任せて。デンデンもまだ混乱してるだろうし、類ちゃんが行って揉めるのもイヤでしょ」

「……ニャン太」

 走り出そうとした寧太に帝人が少し厳しげな声をかける。
 それに寧太は目だけで帝人を見ると、ムッと唇を突き出した。

「……あのね、帝人。ボクは考えを押し付けに行くわけじゃないから。話をして、その後にどうするかはデンデンでしょ」

 そう言い置いて、パタパタと玄関を出て行く。

 扉の閉まる音が響き、帝人は手にしていたプレートを溜息と共にテーブルに置いた。

「……ねえ、類」

「なんだよ……」

「どうしても伝くんが欲しいなら、やっぱり俺たちは一緒にいられないと思う。
 俺たちは平気でも彼が傷つくよ。それは本意じゃないだろ?」

「……」

「ああ、でも……ソウと離れるのは無理か」

 ポツリと呟かれた言葉に、類がギクリと身体を強張らせた。

「類」

 と、それまで黙って聞いていた蒼悟が口を開いた。その瞬間、類はハッと身体を起こして、蒼悟を見た。
 何か言おうとして、奥歯を噛み締める。
 それに蒼悟は、野菜を類のプレートに追加しながら言った。

「気にするな。アイツはお前を選ぶ」

「選ぶって、俺たちを受け入れるってこと?」

 帝人の問いに、蒼悟はコクリと頷いた。

「ソウはそれでいいの」

「類が望むことを叶えたい」

「……そっか」

 帝人は肩をすくめた。
 続いて、ホッと胸を撫で下ろす類に眼差しを向ける。

「俺は類が変わりそうで怖いよ」

「……変われねぇよ」

 類はプレートからレタスの葉を指先で抓み、口に放ると顔をしかめた。

「どうだかね」

 帝人は口の中だけで、そう呟いた。

* * *

 マンションを出ると、じめっと湿った熱風に包まれた。
 抜けるような青空だ。
 6月も下旬に差し掛かると、もう辺りは夏で、靴を履いていても太陽を反射したコンクリートの熱さが伝わってくるようだった。   「デンデン! ねえ、待って!! 待ってよっ!!」

 街の喧騒に紛れて、ニャン太さんの声がした。
 躊躇いがちに振り返ると、彼は目の前まで駆け寄ってきて、膝に手をついて呼吸を整えるようにした。

「はぁ、はぁっ、はぁ……っ」

「あの……まだ、何か……?」

「類ちゃんの、連絡先……教えてなかったって聞いて……っ」

「連絡先……」

 すっかり失念していた。
 けれど、知らないままでいいと思う。
 知ってしまったら、また、連絡先を眺めて悶々とするに違いないからだ。

 ニャン太さんは身体を起こすと、額から流れる玉の汗を手の甲で拭った。

「……あのね、デンデン。類ちゃんが家に誰かを連れてきたの、君が初めてなんだ」

 それから切実な様子で言った。

 僕は困惑した。どうして自分の恋敵になるような相手に塩を送る真似が出来るんだろう。
 本当に彼らにとって、僕は邪魔者じゃないのだろうか。

「僕らは普通じゃないかもしれない。でも、ワンナイトだとか、身体だけとか、そんな風に考えないであげて欲しい。類ちゃん、そういう不誠実なことしないから……」

「……ニャン太さんは」

 必死な彼を見ていると、僕は疑問を抑えきれなくなった。

「平気、なんですか……?」

「え?」

 ニャン太さんが大きな目を瞬かせる。
 僕は少しだけ躊躇ってから、意を決して続けた。

「だって、僕もパートナーになるってことは、類さんの愛情が4分の1になるってことですよ」

 これは公平に愛情を分けた場合だ。もしかしたら、もっと少なくなる可能性だってある。
 ニャン太さんたちだけじゃない。彼が複数の人を愛するのなら、これからまたパートナーが増えるかもしれない。
 そうしたら僕への愛情もまた減るだろう。どんどん、どんどん減っていって、やがて僕は捨てられてしまう……

「うーん……」

 ニャン太さんはしばらく考えるようにしてから、ニコリと笑った。

「ボクはそうは思わないかな」

「思わない? 何故ですか?」

「例えば、ボクは5人兄弟なんだけどね、母さんは分け隔てなく愛してくれたんだ。
 だからボクは、愛情は注ぐ相手が増えたからって、減るわけじゃないと思ってる。むしろ総量は増えるかなって」

「増える……?」

 僕は首を傾げた。

「どうして、愛情が増えるんですか……?」

 問いに、ニャン太さんは背をシャンと伸ばすと僕を見つめてくる。
 その茶色の大きな瞳はあまりに真っ直ぐで、僕は思わずたじろいだ。

「類ちゃんが愛してる相手なら、ボクも愛せる自信があるから。そして、ボクだって……キミに愛される自信があるから。
そしたら、ボクらの愛が化学反応を起こして、総量は増えるでしょ?」

 ニャン太さんは胸に手を当ててから、両手の指でハートを描いた。

「それって、1対1で愛し合うよりたくさんの可能性があるとは思わない?」

 ぜ、全然わからない……
 そんな考えが成り立つものだろうか?

「ボクはね、デンデンが来てくれたらもっと賑やかになって楽しいと思ってる。だから、待ってるよ」

 ニャン太さんはポケットからメモ帳を取り出すと、素早く何かを書いた。それから丁寧に折りたたんで、僕の手にそれを握らせた。

「これ、類ちゃんの電話番号。渡しておくね」

「僕は……」

 言葉が見つからず、メモを突き返そうとする。
 するとニャン太さんは、寂しげに笑った。

「いらなければ捨てていいからさ」

 彼は背で手を組むと、スキップするようにして僕から一歩退いた。

「じゃ、引き止めてごめんね」

 言って、クルリと踵を返して歩き出す。
 立ち尽くしていると、ニャン太さんが振り返って大きく手を振った。
 僕もつられて片手を振り返す。

 それからしばらくして、僕は手の中の紙をズボンのポケットに突っ込んだ。

 ゴオゴオと、頭上の遙か上空を飛行機が飛ぶ音がした。
 首筋を汗が流れ、日に灼かれた目の奥が痛い。

 暑さのせいだろうか。地面がグラグラと揺れているような気がした。

-12p-
Top