ファミリア・ラプソディア

火事と背中(12)

□ ■ □

「類ちゃん、おつかれー」

 浴室から出てきた類を迎えた寧太は、彼の様子に目を瞬いた。
 きっちりとシャツを着込む類に僅かに表情が浮かんでいる気がしたのだ。

 頭からかけたタオルで髪を拭い、類は少しだけフラ付きながら自室に向かう。
 寧太は急いで伝の着替えを脱衣所に置くと、その背中に思い切って告げた。

「類ちゃん、あ、あのさ、ボク……髪の毛乾かそうか?」

 そんな寧太を、乾燥機の中の皿を片付けていた帝人がギョッとしたように振り返った。

「ニャン太、それは……俺、ソウのことすぐ呼んでくるから……」

「いや、寝かせてやって」

 そう応えたのは類だった。
 思わぬことに帝人は目を瞬かせた。

「え、でも……」

「ニャン太、ありがとな。……髪、頼むわ」

「……! う、うんっ……うん……っ!」

 寧太はダッシュでドライヤーを取りに行くと、いつもの場所に座った類の後ろにスタンバイした

 濡れた髪をそっと持ち上げる彼の口元には隠しきれない喜色が滲む。
 一方で、帝人はどこか不安げな眼差しを類に投げた。

「類……?」

「……なんだよ?」

 帝人は言葉を探して押し黙る。
 静まり返ったリビングに、ドライヤーの音が響いた。と、

「寧太……っ! 類がいない!」

 類の部屋から血相を変えて出てきた蒼悟は、ソファを見てホッと胸を撫で下ろした。
 寧太は上機嫌に言った。

「ソウちゃん、大丈夫だよ。類ちゃん、お風呂入ってたんだ」

「……そうか」

 蒼悟は類の隣に腰を落とすと、類の手を取る。

「あ、ラベンダーの香りがする。バスポプリ使ったんだ?」

「なんだそれ?」蒼悟が小首を傾げるのに、寧太はドライヤーを繰りながら続けた。

「帝人とデンデンと作ったんだよ~。お風呂に入れる良い匂いのもと! ラベンダーってことは、デンデンのやつだ?」

「うん……」

「どう? お風呂気持ち良かった?」

「……そうな。良かったよ」

 類の答えに、寧太はますます笑みを深くする。
 それから髪を乾かし終えると、ドライヤーのスイッチを切って明るく言った。

「今日はゆっくり眠れるといいね。……おやすみ、類ちゃん」

「……ありがと」

 類がソファを立ち上がる。
 蒼悟はそれを支えようとして、手を引っ込めた。次いで何も言わず隣を歩く。

 類は自室に辿り付くと窓辺に真っ直ぐ向かった。
 締め切っていたカーテンを退かし、窓を開ける。
 秋の冷たい風が吹き込んできて、淫靡な空気を薄くする。ベランダの向こうには、真っ黒な夜空が広がり、重く漂う雨雲の合間にぼんやりとした月が覗く。

「……ソウ」

「どうした?」

「……なんつーか、今日は……眠れそう」

 言って、彼は網戸を閉めるとベッドに寝転がった。

「良かった」と言って、蒼悟はその横に腰を下ろす。

 蒼悟は指先で類の前髪をどかした。
 類はくすぐったそうに微笑むと、身体をずらしてスペースを空ける。

「なあ。寝るまで……抱きしめててくんねぇかな」

「うん」

 蒼悟はベッドに潜り込むと、身体を丸める類をそっと抱きしめた。
 鼻先をラベンダーの香りが掠める。彼は類の髪に唇を押しつける。

「……ごめんな」

「なに?」

「……ううん。あったけぇな、って」

 誰にともなく呟いて、類は目を閉じた。
 彼は久方ぶりに、泥のような眠りに落ちていった。

* * *

 類さんをお風呂に入れてから、自分もシャワーを浴びてリビングに戻ると、何やら揉めている気配がした。

「……ソウはさっきシャワー浴びたんだよね? なんでその時、類もお風呂に入らなかったの」

 帝人さんの、少し固い声音が耳に届く。

「途中で寝ちゃって、起こすの悪いと思ったんだって」

「だからって伝くんに頼むなんて……」

「ボクもちょっと悩んだけど、でも、頼んで良かったと思う。類ちゃん凄く安心できたみたいだし……」

「ニャン太は無責任すぎるよ。伝くんは――」

「あの、僕が……何か……?」

 立ち聞きも申し訳なくて、僕はソファで話し込むふたりに声をかけた。

「さっきはありがとね、デンデン。助かったよ」

 ニャン太さんが笑顔で振り返る。
 一方で帝人さんは長く細い溜息をつくと、コーヒーの入ったマグカップに口をつけた。
 僕はニャン太さんの隣に腰を下ろす。
 帝人さんは膝の間で手を組むと、静かに口を開いた。

「伝くん。単刀直入に言うけど……しばらく君はここにいない方がいいと思う」

「え……」

 告げられた言葉に息を飲む。

「ちょっ、帝人!?」

「君は今、とても大事な時期だ。類の病気のことで振り回したくない」

「そ、そんな……っ、ぼ、僕はここにいたいです……!」

 僕はソファから立ち上がった。
 帝人さんの顔からは、いつもの柔和な表情は消えていた。

「少しの間だけのことだよ。もちろん類が落ち着いたらすぐ戻ってきたら良い。部屋は……大学の近くを借られられるように、俺がなんとかするよ」

「待ってよ、帝人。類ちゃん、今回は回復早い気がするよ。さっきだってボクに髪の毛触らせてくれたし……それって、デンデンのお陰だと思うんだ」

「希望的観測だよ、そんなの」

 帝人さんが小さく溜息をつく。
 僕は所在なく彼を見下ろした。

 帝人さんは……どこか怒っているようだった。 

「……僕、邪魔ですか」

 ポツリと問えば、彼は我に返ったように顔を上げた。
 それから眉間を揉むようにする。

「……違う。邪魔だなんて思ってない。君のことが……心配なんだよ。類は病気なんだ。たぶん君が思ってるよりもずっと支えるのは大変だし、君の負担になる。いや、もうなってると思う」

「負担になんて思ってません」

「本当に? 大学は? バイトは? 今まで通りちゃんとこなせてるの?」

「……やってます」

 夜はよく眠れていなかった。
 だから昼間眠気が取れなくて……昨日、初めて教授に心配された。

「いいかい、伝くん。修論も抱えて、就活もしてて……その上、類のこともなんて、普通に無茶なんだよ」

 帝人さんは間違ってない。
 わかってる。わかってるけど、どうしても納得できなかった。
 ボクは握り締めた拳をふとももに押しつけた。

「……類さんがつらい時に、傍にいられないなんて嫌ですよ。それに、僕だって少しは役に立てます。帝人さんがリビングで寝る回数を減らせるし、料理は……そんなに上手じゃないですけど、出来なくはないですし、洗い物だってできます。今日だって、類さん僕のこと嫌がらないでお風呂に入ってくれました」

「役に立つ立たないの話はしていないよ。……人生で取り返しのつかないことになるかもしれないし……何より、ここにいたら君は傷つくって言ってるんだ」

「でも、あなたはここにいるじゃないですか。傷ついても、ここにいるじゃないですか」

 類さんを支えられるのは、ソウさんだ。それを僕は……きっと帝人さんもニャン太さんも歯痒く思ってる。
 でも、ふたりはここにいる。
 帝人さんは……あんな風に吐露してくれた彼は、僕の気持ちを一番わかってくれるんじゃないのか。

「……感情的にならないで、伝くん。冷静に現状を理解して欲しいんだ。何も別れてなんて言ってない。今だけ距離を置こうって言ってるんだ」

「……」

「それに……類だって、君に弱ったところ見せたくないんじゃないかな」

「でも、見せてくれました。もしかしたら仕方なくだったかもしれないけど……」

 初めて、類さんは僕に弱さを晒してくれた。
 それをなかったことになんてしたくない。 

「帝人さん。僕は……類さんが誰を求めてても別に構わないんです。些細なことだとしても……彼のためにできることをしたいんです。だからお願いします。ここにおいてください」

 頭を下げた。
 自分の人生で、今が大事だということはわかってる。
 でも、類さん以上に大切な存在なんてなかった。

「楽しいだけじゃイヤです。僕にも類さんの……つらいこと、悲しいこと、痛いこと……全部分けて欲しい。もっと関わりたいんです」

「デンデン……」

 ふたりは押し黙った。
 心配してくれているのがわかったから余計に苦しかった。

「関わったらいい。伝のしたいことを周りがとやかく言うべきじゃない」

 沈黙を破ったのは、いつの間にかリビングにやって来ていたソウさんだった。
 彼はいつもと変わらない様子でキッチンに行き、手にしたグラスをウォーターサーバーのレバーに押しつけた。

「ソウ……類、ひとりにして平気なの」

「たぶん朝まで起きない」

 水を仰いで、彼は応える。

「それで、関わるってお前はどうしたいんだ?」

 ソウさんが問う。僕は一度舌を湿らせてから口を開いた。

「教えて欲しいです。類さんの心の傷……あの背中の火傷は、どうしたんですか。あなたたちが恋人同士に――家族になったのは、あの傷に関係があるんですか」

 類さんの言っていた、『確実な繋がり』。『好き以外のなにか』。

 3人が目配せをする。
 僕はじっと答えを待った。

「……デンデンは、ソウちゃんに似てるね。真っ直ぐで、迷わない。だから、類ちゃんは側におきたがるんだ」

 やがて、ニャン太さんが口を開いた。

「話すよ、全部」

「ニャン太……」

「帝人はこれ以上巻き込むな、って言いたいんでしょ。でもね、もう今更だよ。ボク、デンデンのこと大好きだし、それに……デンデンがいなくなったら、きっとボクらの形も変わっちゃう」

 ソウさんがソファに座る。
 ニャン太さんは背もたれに身体を預けると、目を閉じた。
 次いで、瞼を持ち上げた彼は愛おしい記憶を手繰り寄せるように目を細めて遠くを見た。

「ボクらが出会ったのは高校1年の時……」

 帝人さんが静かに目線を落とした。

「あの時のボクはさ、世界は正しいことと正しくないことのふたつに別れてるって、本気で信じてて……」

 ニャン太さんは口元で手を組むとポツリポツリと話し始める。
 それは彗星のようなきらめきを湛えた、苦く青い日々の記憶だった。




『ファミリア・ラプソディア』Chapter2 おしまい To Be Continued

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