ファミリア・ラプソディア

火事と背中(11)

 僕は静かに詰めていた息を吐きだした。

「……触ったら痛いですか?」

「平気。ずっと昔のだから」

 類さんが首を振る。

「そうですか……」

 袖をまくり直してからタオルを泡立てると、僕はそっと背中に押し当てる。

 誰が?
 なんで?
 どうしてこんな……酷いことができる?

 涙がこぼれ落ちそうになって、慌てて奥歯を噛み締めた。
 僕が泣いたってなんの意味も無い。
 でも、悲しくて、許せなくて……心の中がぐちゃぐちゃだ。

 類さんはどんな気持ちで、僕に背中を隠していたんだろう。
 そして、どんな気持ちで……今、僕に見せてくれているんだろう。

 倒れてからの類さんは僕だけじゃなく、ニャン太さんにも、帝人さんにも触れたがらなかった。だからお風呂に入るのも、髪を乾かすのも、全てソウさんがやっていた。
 時折、ソウさんの代わりをニャン太さんたちが請け負うこともあったけど、ふたりは極力、彼に触れないよう気を付けていた。
 ……僕はその手伝いすらさせて貰えなかった。今日、初めて彼は僕を浴室に入れてくれた。

 でも、もしも背中のことを隠し続けたかったとしたら?
 僕はまた余計な申し出をしてしまったんじゃないか……そう思うと、心が冷える。

 浅い呼吸を繰り返し、彼の背中を泡で撫でるようにしてから、他の部分をタオルで優しく擦った。
 うなじ、首の下、脇、お腹……泡を流し終えてから、髪を洗った。

 僕が触れている間、彼は項垂れて、肩を落として、一言も話さなかった。

 類さんが小さく見えた。
 実際、彼は痩せたようだった。

「……終わりましたよ。次、お風呂に入りましょうか」

 湯気を上げるお風呂に手を入れて温度を確認する。
 ぼんやりしている彼を浴室にひとりにすることはできないが、もしも素肌を晒すことがストレスになっているのなら早く湯船に避難させてあげたい。

 と、類さんが僕の袖を引っ張った。

「ど、どうかしましたか?」

「……中も、洗いたい……」

 中……ソウさんの……

 俯いたまま告げられた言葉に一瞬キョトンとしてから、カッと頬に熱が集まる。

「あ、ああ、そうですよね。立てますか?」

「ん……」

 類さんがこちらを振り返る。

 支えようと手を伸ばせば、思わぬことに胸ぐらを掴まれた。そのまま押し倒される。

「る、類さっ……」

 手から滑り落ちたシャワーが、目的もなくお湯をまき散らした。
 シャツやジーパンがぐっしょりと濡れた。

「これじゃ、洗えませんよ」

 一糸まとわぬ姿でのし掛かってきた類さんに、僕は困ったように笑おうとして失敗する。
 濡れた髪から、ポタリポタリと水滴が落ちた。
 目のやり場に困って、僕は視線を逸らす。と、

「……お前ので掻き出せばいいだろ?」

 類さんはせせら笑うと、僕のベルトに手を掛けた。

「なに――何を言ってるんですか」

 僕は愕然として、彼の手を掴んで止めた。

 見下ろしてくる類さんは、どこか他人事のような顔をしている。
 頬を濡らす水滴が泣いているみたいだった。

「……同情すんなよ。……面倒なんだよ、そういうの」

吐き捨てられた言葉が浴室に反響する。

 深呼吸を幾度か繰り返してから、僕は彼を見つめ返した。

 長い睫毛が薄い茶色の瞳に影を落としていた。
 スッポリと感情の抜け落ちた表情は見ているこちらが苦しくなるほどで……

「――っ」

 僕は彼を抱きしめた。気付いてしまったのだ、彼の差し出すナイフに。

 優しくするなと……傷付けて欲しいと、彼の目は言っていた。
 そうすれば自分は楽になれると……楽になりたいと、彼は訴えていた。

 ……嬉しかった。
 彼の根幹に関われることが。心の傷に触れられることが。

 だけど。

「……したくなったら、また誘ってください。そしたら次こそはもうちょっと頑張ります。前回のリベンジです」

「また……? 今は?」

 僕は口の中に溜まった唾液を飲み下す。それから、彼の額に唇を押し付けた。

「痛みを紛らわせるためのセックスは、僕にはできません。今、あなたを抱いたら……あなたは傷つく気がするから」

 ソウさんならきっと躊躇しない。
 愛情も痛みも、類さんが欲しがるなら何だって惜しみなく与えるような気がする。いや、実際に与えている。……自分も、ボロボロになりながら。

 やつれた類さんの整った顔を見つめる。

 いつも屈託なく笑って、僕をベタベタに甘やかしてくれる面影はない。
 ささくれてて、痛ましくて、氷のように冷たい気配がする。
 でも、僕は知っている。
 類さんは優しい人だ。
 背中のことを知れば、僕が混乱するとわかっていたと思う。だから隠していた。そういう人だ。
 そんな人が、僕にナイフを差し出している。
 助けを求めてくれている。なのに、僕は……応えられない。
 類さんが心の底から希求しているのに、僕には叶えることができない。

 失望されるだろう。
 僕は本当に……役に立たない。

「ごめんなさい、類さん」

 そのナイフで僕を滅多刺しにして、それであなたの心が晴れるならどんなにいいだろう。

 でも。

 類さんが傷つくのは嫌だ。
 傷つけるなんて、絶対にできない。

「痛みがあなたを救うとしても、僕にはあなたを傷つけることはできません。これは、僕のエゴです」

 目を閉じて、祈るように続ける。

「愛してるんですよ。大切にしたいんです。あなたが、僕にしてくれたように。宝物みたいに愛してくれたように。だから、僕にはできない。できないんです」

「……もういい。そんな言葉が聞きたいんじゃない」

 類さんは素っ気なく言うと身体を起こそうとする。僕はそれを許さず、彼の腰に手を伸ばした。

「中、洗うんでしょう?……失礼しますね」

 穴口に指を這わせれば、そこは柔らかく熟れていてやすやすと僕の指を飲み込んだ。
 中はべったりと濡れていた。指を増やして、白濁を掻き出すようにする。

「……指、じゃなくて……」

 類さんが悩ましげに眉根を寄せてしがみついてくる。
 僕はそっと彼の耳朶に口付けて作業を続けた。

「もうちょっと上に身体ずらしてください」

「なんで……挿れろよ……っ」

 ぐちゅぐちゅと音がする。
 指に絡み付く残滓は類さんの痛みだ。そして、ソウさんの……痛みでもある気がした。

「つまんねぇ意地張るな。お前も、ガチガチになってんじゃん……」

「でも、したくないんです」

「伝……っ!」

「ごめんなさい」

 僕は彼の唇を塞いだ。

「んっ――」

 そのまま奥まで指を伸ばして、粘つく白濁を掻き出す。
 絡め取った彼の舌が引き攣るように震え、彼は身体を強張らせた。
 お腹の辺りに生暖かなものが広がる。

 僕は指を止めて彼を抱きしめた。
 熱い粘膜の痙攣が落ち着くまで、そうしていた。

「……たぶん、これで大丈夫ですよ」

 指を抜いて、シャワーを手に取る。

「お尻、まだ違和感ありますか?」

「……ない」

 彼の身体を再び清めてから、僕は微笑んだ。

「良かった。じゃあ今度こそお風呂に入りましょう」

 身体を支えると、腕を振り払われた。
 それから類さんは不機嫌そうに湯船に身体を沈めた。

「お湯加減どうですか? 熱くないですか?」

「……」

 たぶん声は聞こえているけど、無視された。
 僕は小さく嘆息して腰を持ち上げる。

「ちょっと待っててくださいね」

 それから、浴室を出てすぐの棚からポプリを手に戻ってきた。

「ニャン太さんと帝人さんと色々用意したんですよ。これは僕の自信作です」

 そっとポプリを湯船に浮かべる。
 しばらくすると、微かに甘い香りが漂ってきた。

「どうですか? ラベンダーとカモミールをブレンドしてみたんです。ハーブティの茶葉で作っているので飲もうと思えば飲めます」

「……いや、飲まねぇけど」

「ですよね」

 頷くと、ちょっと呆れたような類さんと目が合う。
 彼ははたとしてすぐに目線を逸らしてしまったけれど僕は嬉しかった。
 胸が潰れるくらい嬉しかった。

 僕はお風呂の縁に腕をかけ、その上に顎を乗せると彼を見つめた。
 ちょっとだけ、ささくれた雰囲気が和らいだ気がする。

 類さんは戸惑ったように身動ぎしてから、僕の顔を押しやった。
 それから僕が再び縁に手を置くのを阻止するみたいに、自分の腕を置いた。

「服……」

「はい?」

 束の間の沈黙の後、彼は唇を開いた。

「濡らしたし、汚した。…………悪かった」

「どうせすぐに脱ぎますから。問題ありません」

 言って、類さんの手に手を重ねてみた。
 今度は振り払われなかった。
 彼は手のひらを裏返して、指に指を絡ませるようにした。
 僕はもう片方の手で彼の指を撫でた。

「類さんの手、凄くキレイですよね。ほっそりしてて、指長くて……僕の手は厚ぼったくて、不格好だから……羨ましいです」

「…………厚い手は、情が深いんだってさ」

「そうなんですか?」

 首を傾げる。
 類さんは何も言わなかった。でも、応えるように戯れていた手を僕の顔に伸ばした。

 僕は目を閉じて、その手に頬を寄せる。
 どうか、どうか、類さんが安らかでありますように。と、祈る。

「……そろそろ、出るよ」

 静寂を破って、類さんが言った。

「わかりました」

 僕は頷くと、浴室リモコンのボタンを押した。

「ニャン太さん、類さんお風呂あがります」

 明るく告げれば、すぐに返答があった。

『ほいほーい。じゃ、直ぐ迎えに行くね』

「あ、僕の着替え持ってきて貰っていいですか? このままシャワー浴びたいので」

『了解~!』

 お風呂を出た類さんを、僕は用意していたバスタオルで包み込んだ。
 背中の火傷に胸がちぎれそうに痛んだが、丁寧に水滴を拭った。

「さすがに自分でするよ」

 下着をはかせようとした僕に、類さんは苦笑した。

「す、すみません……」

 僕は気恥ずかしさを覚えて、彼に背を向けた。
 濡れたシャツを脱ぎ捨てる。
 さっさと類さんは着替えると、バスタオルをタオル掛けに放った。

 僕は脱衣所を出ていこうとする類さんの腕を掴んで引き留めた。

「……なに?」

「愛してますよ、類さん」

「うん……」

「背中、見せてくれてありがとうございました」

 類さんが小さく目を開く。
 手を離せば彼は何か言おうと唇を開閉させ……短い吐息をこぼすと、踵を返した。

-107p-
Top