火事と背中(10)
* * *
リビングにいくと、ニャン太さんが呆けたようにソファに座って、両手を見下ろしていた。
「ニャン太さん……?」
躊躇いがちに声をかける。
彼はハッとしてこちらを振り返ると、ニコリと笑った。
「あ、デンデン。おかえり~」
次いで、彼は気を取り直すようにして勢いよくソファを立ち上がった。
「なんか食べよっか。ボク、作るからさ!」
「僕も手伝います」
僕も微笑んだ。
「ホント? めっちゃ助かる~!」
いつも以上に楽しげに、軽い足取りでキッチンへ向かった彼を追う。
僕らはふたりで台所に立ち、冷蔵庫にあった野菜と卵、朝食の食パンでサンドイッチを作って食べた。
不自然なほど、僕らはいつものように過ごした。
ニャン太さんが語るコータくんさんの話に耳を傾け、僕は笑った。……でも内容は全く頭の中に入ってはこない。
しばらくして帝人さんも帰ってきた。
「ただいま。ごめんね、すぐ帰ってこられなくて」
「平気平気。そのための自営だから」
「それで類の状態はどう?」
薄手のコートを脱ぎながら、帝人さんが問う。
ニャン太さんはニコニコして答えた。
「さっき目、覚ましたよ~。今はソウちゃんがついてる」
「……それなら安心だね」
チラリと帝人さんが類さんの部屋を見た。
あれからソウさんは一歩も部屋から出てこない。
「デンデン、そろそろ寝なよ。明日、学校あるんでしょ?」
深夜を過ぎてもリビングにいると、ニャン太さんが言った。
「で、でも……」
「俺たちにやれることはないよ。心配なのはわかるけどね」
シャワーを浴びた帝人さんが、髪を拭いながら続ける。
僕は渋々頷くと、席を立った。
「……わかりました」
自室で翌日の授業の準備をした。
プリントをリュックに詰めていると、中から類さんへ買った手袋が出てきた。
「渡しそびれちゃったな……」
僕は力無く笑うと、それをそっとデスクの引き出しにしまった。
その日は絶対に眠れないと思っていたのに、僕はいつの間にか夢を見ていた。
類さんたちと海上で花見をする夢――引っ越してきた初日に見た、あの奇妙な夢の続きだ。
僕は静かに海の底に沈みながら、深く伸びる赤い桜の木の根を見つめていた。
梶井基次郎のフレーズが、揺れる波間に浮かんで消えた。
* * *
類さんが倒れてから、しばらく経った。
あれからソウさんは仕事を休んでいる。
ニャン太さんは完全に夜勤にシフトして、朝に帰ってくるようになった。
彼はリビングで寝て、夕方までそこで過ごして、仕事へ出掛けた。
夜は帝人さんがリビングで寝ていた。
類さんは無意識に外へ出て行ってしまうらしく、その対策だった。
僕も帝人さんと交代で夜をリビングで過ごした。
扉が開く音を夢の中で聞いて、何度も目が覚めた。
その度に類さんの部屋の扉まで行って、内側から鍵が掛かっていることを確認した。誰も出てきていないことに安堵し、中から微かに聞こえるふたつの声に胸をかき乱されながら、リビングのソファに戻る。
類さんは、時間の全てをソウさんと過ごしていた。
お手洗いやお風呂、食事のために部屋から出てくる以外、ふたりはずっと部屋にこもりっぱなしだった。
時折見かけるふたりは、気怠く隠微な雰囲気をまとっていて、僕はやっと、以前、帝人さんがポツリと漏らした言葉の意味を理解した。
『俺じゃないことを、どうしようもなく苦しく思うことがある』
苦しかった。 類さんのベタベタに甘い愛情を与えられないからではない。彼を支えられるのが僕ではないという事実に打ちのめされた。
拒絶されるのが怖くて、自分は震える彼の手を握りしめることすらできなかったというのに。
構わず類さんを抱きしめたソウさんの躊躇いなさが、力強さが、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
僕はその真っ直ぐさに嫉妬していた。
敵わないと思った。
少しでも自分のことを考えてしまった情けなさが、どうしようもなく苦しかった。
* * *
更に時間は過ぎ……
夜、夕食を終えて、テーブルを拭いていると、類さんがシャツを1枚羽織った姿でフラフラと自室から出てきた。
下着ははいていない。
いつもきっちりしている彼の無防備な姿は、何度見ても慣れない。
「あ、類ちゃん。お風呂ならちょっと待って! ボク、今、洗い物してて……」
「……」
声は、類さんには届いていないようだった。
彼は無言で、途中壁にぶつかったりしながら浴室に向かっていく。
僕は台布巾を放り、急いで類さんに駆け寄った。
彼は歩くのが億劫になったのか、その場に座り込んでしまった。
「あの、僕で良ければ手伝います」
彼を支えながら、僕はニャン太さんに言った。
帝人さんは今はコンビニに切れた牛乳を買いに行ってくれていて不在だ。
「ありがと、デンデン。でも……」
ニャン太さんが泡のついたスポンジを手に、僕と類さんを交互に見て言葉を探すようにする。しばらく躊躇ってから、彼は小さく吐息をこぼすと口の端を持ち上げた。
「やっぱ、お願いするね」
「任せてください。……類さん、もう少し歩けますか」
僕は、彼の腕を引いて立たせた。
「……」
類さんはぼんやりと僕の方を見た。
それから唇を開こうとして、気怠い溜息をこぼした。
僕は、彼のふとももの濡れた跡だとか、赤い口付けの跡だとか、生々しい痕跡から目を逸らしつつ、彼を抱き寄せ歩き出した。
類さんの身体は汗ばんでいて、全身からとても淫らな香りがする。
ソウさんとどんな風に過ごしているかはわかっていたけど、正直……ショックだ。
「ソウさんは……」
「……寝てる」
問えば、類さんはどこか舌足らずな様子で答えた。薬の副作用かもしれない。
僕は彼と一緒に浴室に入った。
それから唯一羽織っていたシャツを脱がせて、
「……っ」
目を、見張った。
予感はしていた。
彼の背中には、火事の時に負った傷があるんじゃないか、と。それを彼は隠しているのだと。
けれど、そこにあったのは――
「……汚ぇだろ」
類さんが諦めたように鼻で笑う。
「…………そんなこと思うわけないじゃないですか」
僕はバスチェアに彼を座らせると、なんとか掠れる声を絞り出し、桶に溜めたお湯にタオルを沈めた。
込み上げてくる怒りに視界が歪んでいた。
手が震えて、うまくタオルを絞れない。
彼の背中には、予想していたような傷跡は見て取れなかった。
代わりに、おびただしい数の――タバコを押し付けたような火傷跡が、そこにはあった。