火事と背中(9)
* * *
マンションにつき類さんを彼のベッドに寝かすと、僕とニャン太さんは言葉少なにその場に留まった。クッションをお尻の下に敷き、類さんの寝顔をぼんやりと見つめる。
「……デンデン、お腹空いてない? 何か口にした方が良いよ」
「わかってるんですけど……今は食べる気になれなくて」
「……だよね。バカなこと聞いちゃった。ごめん」
「いえ、気にかけてくれてありがとうございます……」
携帯の着信音が3つ重なる。
ニャン太さんは素早く自分のスマホを覗き込むと、安堵したように表情を和らげた。
「ソウちゃん仕事早退したみたい。今、戻ってるって」
再び会話が途切れる。
その時、類さんが身じろぎした。
「う……ぅ……っ」
形の良い眉を苦しげに寄せて、荒い呼吸を吐きだす。
両手で顔を覆ったかと思えば、彼は自身の髪を掴んで呻いた。
「類ちゃん」
嫌な夢でも見ているのだろうか……声をかけようとすれば、ニャン太さんはすかさず類さんの肩を揺すった。
「類ちゃん、類ちゃん……起きて。おうち、帰ってきたよ」
声にパチリと彼は目を開ける。
定まらない焦点が、ゆっくりとニャン太さんに集約されて――彼は勢いよく彼の手を振り払うと距離を取った。
「……っ」
ニャン太さんが小さく息を飲む。
張り詰めた静寂が束の間落ちて、類さんは気まずそうに視線を落とした。
「…………悪い」
「平気、平気。気にしないで」
殊更明るい声でニャン太さんは言った。
それから彼は僕の肩を軽く叩いて立ち上がる。
「デンデン、類ちゃんのこと任せていいかな。ボクはリビングにいるから、何かあったら呼んでね」
頷いた僕に、彼はちょっと寂しそうに笑うと部屋を出て行った。
類さんが身体を起こした。
その手は小さく震えていた。
僕は抱きしめたい衝動に駆られたものの、振り払われるのが怖くて実行に移せなかった。
「……驚いたろ」
類さんがポツリと呟く。
僕は首を左右に振った。
「大丈夫ですよ。命にかかわるようなことじゃなくて良かったです」
悄然と項垂れる彼の頬を、つ、と額から流れ落ちた汗が伝う。
類さんはその汗を鬱陶しそうに手の甲で拭った。
「あの……汗、拭きましょうか」
「いや……」
「スッキリすると思うんですよ。今、タオルを持ってき――」
「いらねぇっつってんだろ……っ!」
「――っ」
声を荒げた類さんに、僕は身体を強張らせた。
彼は上掛けをキツく握りしめて、クソ、と小さく吐き捨て再び寝転がる。
「すみません……余計なこと、言いました」
少しでも、彼の気を紛らわせることをしてあげたかったけれど……失敗してしまったみたいだ。
「…………」
類さんはこちらに背を向け上掛けを身体に巻きつけるようにした。僕にはそれが、服を脱ぐことに対する強い拒絶反応に思えた。
「……俺……今、まともじゃねぇから……ほっといて、いいから」
掠れる声を漏らす類さんの肩は震えている。
『類ちゃん、お父さんのこと火事で亡くしててさ』
『……つらいこと、思い出しちゃったんだと思う』
――火事。
脳裏に蘇ったニャン太さんの言葉と、身体を丸める類さんの姿が重なった時、僕の頭の中にいくつかの情景が数珠なりに浮かび上がってきた。
彼が夜の海で泳いでいたことだとか。
いつも袖丈の長いシャツを着ていることだとか。
一緒にお風呂に入らないことだとか……
時折、掠めた違和感の点が繋がっていく。
さりげなく彼は肌を見せることを避けていた。
あまりに自然な振る舞いだったから、今の今まで気付かなかったが、もしかして類さんは……お父さんが亡くなった火事に巻き込まれていたのだろうか。
僕は俯いた。
かける言葉が見つからない。でも、沈黙が1番いいのかもしれない。
下手に踏み込んで傷つけてしまったらと思うと怖い。
彼の心の傷を僕に分けることができたらいいのに。
気の利く言葉ひとつ、僕は持っていなかった。
静寂に雨の音が落ちる。
それは次第に強くなり、バタバタと窓を鳴らした。
と、玄関の方で音がした。
帰ってきたその人は、駆け足で部屋へやってくると乱暴に扉を押し開いた。ソウさんだった。
「ソウさん、おかえりなさい」
「類、大丈夫?」
「はい。いつもの発作だって、ニャン太さんが――」
ソウさんは真っ直ぐ類さんのベッドに駆け寄ってきて、背を向ける彼を躊躇なく仰向けにした。
「こっち見て」と言って、顔を覗き込む。
「……平気だよ」
類さんは短く告げるとソウさんを振り払い、また背を向けようとした。
ソウさんはめげずに同じことをした。
「類。見て」
「しつけぇな。放っとけって――」
類さんが再び彼を振り払り、ソウさんは気にせずまた同じようにする。
類さんは怒ってソウさんを押しやった。
ソウさんは力強く類さんを抱きしめた。
その光景を目の当たりにした瞬間、僕の胸の鼓動が歪に跳ねた。
「クソ……離せよ……っ!」
類さんは身を捩って、ソウさんを叩いて暴れる。
そんな抵抗など気にも留めず、ソウさんは類さんのこめかみにキスをした。
頬を両手で包み込み、彼の涙を舌で拭った。
次第に押しのけようとしていた類さんの抵抗が小さくなっていき、やがてソウさんは彼の両手をベッドに押し付けるようにして唇を重ねた。
「ん……」
ピクリと類さんが震える。
僕はふたりから視線を外した。
舌を絡める水音が耳から侵入してきて、変な動悸を覚えた。
水音はまるで針になったように、僕の心臓を突き刺してくる。
混乱した。
たぶん、僕は今……傷ついている。
どうしてだろう……?
今までは平気だったのに。
顔が熱い。息が引きつる。
思考が、感情が、バラバラになっていく。
「あ、あの……僕も、リビングにいますね」
目眩を感じて、僕は立ち上がった。
「うん」と、ソウさんは類さんの髪を撫でながら頷いた。
その隙をついて類さんが顔を背けると、ソウさんは宥めるように彼の頬にキスをした。
努めて平静に、僕は扉へ向かった。
……部屋を出る時、少しだけ類さんに呼び止められるのを期待していた。
でも、彼が僕を見ることはなかった。