火事と背中(8)
病院の一室で、僕はパイプ椅子に座りぼんやりしていた。
目の前のベッドには、深く寝入る類さんが横たわっている。
初めて救急車に乗った。
それからのことはあまりよく覚えていない。
救急隊員さんに既往歴とか色んな事を尋ねられたけど、僕は、すみませんわかりませんしか言えなかった。
病院でも同じだった。こんなに一緒にいて、僕は彼のことを何も知らなかった。
足元の買い物バッグが、現実とズレている気がする。優しい人が救急車に乗り込む時、放り込んでくれたのだ。それを後で看護師さんが届けてくれた。
なんで、こんなことになったんだろう。
そんな問いばかりが、頭の中を巡っている。
朝まで楽しく過ごしていたのに。
いつもと変わらない一日になるはずだったのに。
お医者さん曰く、類さんの不調は命に関わることではないそうだ。それだけが救いだった。
「デンデン……!」
ニャン太さんが病院に到着した。
急いで来てくれたのだろう、彼は額に汗を浮かべていた。
「ニャン太さん……」
「ごめん、遅くなって。ありがとね、類ちゃんの傍にいてくれて……」
椅子から立ち上がると、キツく抱きしめられる。
ふわりと馴染みある爽やかなフレーバーが鼻先を掠めたその瞬間、張り詰めていた何かが切れてボロリも涙がこぼれた。
「ふ、ぅ……っ」
僕は小柄な彼の背に腕を回すと、しがみついた。噛み締めた歯の間から嗚咽が溢れた。
「る……類さん……し、死んじゃうのかと……思っ……」
「大丈夫だよ。大丈夫」
ニャン太さんは何度も大丈夫と言って、背中をさすってくれた。
僕は声を押し殺して泣いた。
怖かった。……本当に怖かった。
悪い予感ばかりが頭を過った。
意識を確認する声や、握りしめた冷たい手、見たこともないくらい青ざめた横顔。
地面が崩れ落ちたかと思った。身体の奥底から叫びたくなるような恐怖に目の前が暗くなった。ちゃんと話を理解しなくちゃと思うのにうまく言葉をすくいあげられなくて、しっかりしないと、と何度も言い聞かせて、それでもどうしようもなくて……
「……すみません……もう、大丈夫です……」
ニャン太さんの肩に顔を押し付けていた僕は気持ちが落ち着くと、身体を離して力なく笑った。
ニャン太さんが優しく僕の髪を撫でる。
「……うん。ボク、ちょっとお医者さんと話してくるね」
「はい……」
彼は慣れた様子で部屋の近くを通りかかった看護師さんに声をかけた。
部屋にまた僕ひとりになる。
僕は類さんの寝顔を見下ろし、前髪をそっと脇に退かした。
鼻の上に手をかざす。
吐息が指先に触れて、ホッと胸を撫で下ろす。
生きてる。類さんは、生きてる……大丈夫。
しばらくするとニャン太さんが戻ってきて、すぐに類さんと一緒に病院を出ることになった。
「マンションに帰るんですか? 検査とかしなくて平気なんですか?」
僕の不安を拭うように、ニャン太さんは優しく微笑んで答えた。
「ここ最近、全然出てなかったけど……いつもの発作なんだよ。入院するなら通ってる病院があるし、類ちゃんは家の方が落ち着くんだ。ひとりになるの、1番嫌いだからさ」
「そうなんですか……」
ニャン太さんは類さんを背負うと、車に向かった。
後部座席に彼を押し込み、僕はその隣に座って類さんを支える。
シートベルトをつけると、車は静かに走り出した。
「ごめんね。びっくりしたよね」
ニャン太さんが、バックミラー越しにこちらを見た。
僕はゆるりと首を振った。
「いえ……あの、お医者さん、心因性って言ってました。原因って……」
類さんが意識を失った時のことを思い出す。
ニャン太さんは前を向くと小さく頷いた。
「類ちゃん、お父さんのこと火事で亡くしててさ」
わずかな間の後に、彼は歯切れ悪く続けた。
「……つらいこと、思い出しちゃったんだと思う」
『だいぶ前に死んだし、全然悲しいとかないから』
実家に帰省した時の会話が耳の奥で反響した。
彼はあの時、何でもないと言うようにケラケラと笑っていた。
僕は類さんを抱き寄せた。
それから小さな声で、ごめんなさい、と呟いた。