火事と背中(1)
冷たい雨が降っている。
外はもうすっかり秋だ。
そろそろ寝るべくベッドに潜り込んだ頃、類さんが部屋を訪れた。
「伝……仕事終わった。ぎゅうしよう、ぎゅう」
「お疲れさまです。でも、今夜は――ちょ、類さっ……」
彼はご機嫌な様子で僕をベッドに押し倒してきた。
仕事明けの彼はとてもテンションが高い。
なんだかこちらも嬉しくなってしまうくらい朗らかだから、ついつい受け入れてしまいそうになる。
が、今夜は心を鬼にして我慢。
僕は類さんの腕から逃れるべく身体を捩る。
ハイテンションとは裏腹に疲れている様子だからだ。
それもそのはずで、類さんはまたここ数日、朝まで仕事をしていた。
「今日はもう寝てください……!」
「イヤだ。なんのために頑張ったと思ってんだよ。あんたとイチャつくためだぞ」
「それは、わかってますよ。でも、仲良くするのは明日だってできるでしょう?」
「あんたのこと抱いたら寝るよ。それはもう死んだように」
「いやいや、今すぐ寝てくださいってば!」
キスを避ければ、首筋に噛みつかれる。
せめて、自分の「その気」だけは追い払おうと必死になる。
「類さん、本当にダメです……っ」
「断る」
押しのけようとするが、類さんの整った顔が近づくと思わず抵抗する力が緩んだ。
もちろん彼がそんな隙を逃すわけもなく、僕の唇は奪われてしまう。
「んー! んっ、んんっ……」
「イヤなら全力で拒否しろよ、伝……」
イヤだなんて思うわけがないとわかっているくせに、そんなことを言う。
う、うう……ズルい。
類さんは本当にズルい。
「心配なんですよ……ちゃんと休まないと身体壊しちゃいます……」
僕は呟いた。……パジャマのボタンを外されながらじゃ、なんの説得もないけど。
休んで欲しい気持ちと、しばらく触れ合えなかった寂しさとの間で、未だ揺れ動いてはいるものの、彼が甘えてきた時点で勝敗は既に決していた。
トドメとばかりに、吐息を奪うような口付けをされ、僕の欲情は限界までエレクトする。
「好きだよ、伝」
「んぁ……ダメ、って……言ってるのに……」
うつ伏せになると、類さんが背中に覆い被さってきて、背後から抱きしめられた。
たくさんのキスの後、シャツの袖を腕から抜かれた。
「もう……したら、すぐに寝てくださいよ……? 約束ですからね……?」
「ん、約束する……」
素肌を熱い手が散歩する。
が、その指先は何度か止まった。
やがて完全に静止したかと思うと、彼は全体重を乗せてくる。
「……類さん?」
「…………え? なに?」
ハッと身体を起こした彼に、僕は続けた。
「今、意識飛んでませんでした?」
「……飛んでねぇよ?ほ、ほら、さっさと下も脱げって」
絶対、寝てたよなぁと思いつつ、僕はいそいそと彼に背中を向けてズボンを引き下ろす。
その時、ふと、触れ合いたいなら別にセックスじゃなくてもいいのでは?なんて考えが降ってきた。
疲れてる類さんを更に動かせるのはやっぱり申し訳ないし。例えば僕から口でするとか……
「……あの、類さん。類さんも服脱いでくれませんか?今日は、その、僕がしますから」
「……」
応答なし。
下着も脱ごうと手を掛けていた僕は、類さんを振り返った。
「ね……寝てる……」
彼は気持ち良さそうに寝息を立てていた。
やっぱり限界だったんじゃないか。
呆れるやら、残念に思うやら、僕は複雑な思いで脱いだばかりのズボンをはき直す。
それからぐしゃっと丸まっていたパジャマのシャツに腕を通すと、唇を半開きにして深く 寝入る類さんを改めて見下ろした。
可哀想に、目の下にうっすらとクマができている。
彼の肩口まで上掛けを持ち上げ、僕はその隣に寝転がった。
「類さん。お疲れ様です」
起こさないように気を付けながら、そっと彼の髪に口付ける。
ぬくもりが愛おしい。
僕は類さんに身体を寄せると瞼を閉じた。
* * *
翌日、類さんが起きたのは正午を大きく回る頃。
みんなで昼食を食べ終わり、リビングでくつろいでいると、彼は慌ただしく僕の部屋から出てきた。
「おはよう、類」「おはようございます」
帝人さんと挨拶が重なる。
「ああ、おはよ……」
「おはよーっていうか、おそよー?」
「ご飯、温めるぞ」
「ありがと、頼むわ……」
ソウさんがソファを立ち、僕の隣に座っていたニャン太さんが右に退ける。
その空いたスペースに類さんは腰を下ろすと、こそりと僕に耳打ちした。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」
「よく眠っていたので。ダメでしたか?」
「いや、まあ、おもっくそ寝たけどさ」
良かった、彼の顔色はとてもいい。ちゃんと休めたみたいだ。
彼は肩を竦めて嘆息した。
「……昨日は悪かった」
「なんで謝るんですか。寝ろって言ったのは、僕ですよ」
申し訳なさそうにする類さんに、僕はブンブンと頭を振る。
と、ニャン太さんが目を瞬いた。
「なになに? チュッチュしてる途中で寝落ち?」
「そんなギリギリの状態で、伝くんの寝室行ったらダメでしょ……」
ブラックコーヒーを飲みながら帝人さんが溜息をつく。
それに類さんは気まずそうに髪を掻き上げた。
「いや、部屋に行った時点では眠くなかったんだよ」
「でも、くっついてるうちに寝ちゃったんでしょ?」
「……そう」
「デンデンはアルファ波出てるからねぇ~」と、ニャン太さん。
「良かったじゃない」
帝人さんが微笑んで相槌を打つ。
「まぁ、うん、最高の寝心地だったんだけどさ……」
類さんは僕をチラリと見てから、肩を落とした。
「イチャイチャもしたかったっつーか」
「そんなの、今からすればいいじゃん」
ニャン太さんが不思議そうに言う。
「えっ!? さ、さすがにそれはっ……」
「伝くん、たぶん誤解してる」
帝人さんがゆるりと首を振るのに、僕は目を瞬いた。
「誤解?」
「……ボク、今のデンデンの反応でめちゃくちゃ不安になっちゃったんだけど……もしかして、ふたりともデートしてない?」
「デート、ですか……?」
そういえば、デートらしい時間は過ごしていない気がする。基本的にみんなとワイワイしているし、ふたりの時はベッドの上だ。
「ちょっと類ちゃん!?」
ニャン太さんが類さんの肩を揺すった。
「お買い物行ったり、映画観たり、遊園地行ったり……そゆことしてないの!?」
「そういえば、してねぇな。付き合う前にカレー食ったくらい?」
「そうですね」
「類ちゃん……デンデンだから許されてるんだからね?フツーなら『私の身体だけが目的なの!?』って問い詰められる案件だよ!?」
「大丈夫ですよ。僕、外に行かなくても全然平気なので」
むしろ家にいる方がリラックス出来るし、周囲を気にしなくて済むから楽だ。
「そんな、デンデン……不健全な……」
ニャン太さんが唖然とする。
次いで、何故か僕と類さんを引き剥がすようにした。
「ふたりとも今日、家ではイチャイチャ禁止ね」
「えっ!?」
「つまり、デートに行けと?」
「ニャン太。今日、雨だよ。またにしたら?」
帝人さんが窓の外へ目を向けて言う。
ニャン太さんは唇を尖らせた。
「雨って言っても、そんなに強くないし。今行かないと一生行かないよ、このふたりは」
「そうかもしれないけど……」
「わかったよ。デートしてくるよ」
観念したように口を開く類さんに、ニャン太さんがすかさず念を押す。
「すぐラブホ連れ込むとかナシだからね?」
「お前は俺のことなんだと思ってんの?」
その時、ソウさんが温めた親子丼を持ってきた。
類さんは礼を言うと、遅い朝ご飯を食べ始める。
「どこか出掛けるのか?」
「うん。飯食ったら伝と出掛けてくる」
「ソウちゃん聞いてよ。類ちゃん、デンデンとデートしたことないんだって!」
ニャン太さんの訴えに、ソウさんはゆっくり瞬きをした。
それから僕を見たかと思えば、眉根を下げた。
「それは……可哀想に」
え? あれっ? 同情されてる!?
「ソウさんは類さんとデートを……?」
「するが」
意外だ。
「よくふたりで映画観に行ったりしてるよね」と、帝人さん。
「伝も行けばいい」
「映画ですか……」
僕はあいまいに笑った。 最近、論文の準備ばかりでテレビすらまともに見ていない。正直、エンタメをどう楽しんだらいいのか忘れかけている。
デート、デートと考えていた僕は、あることに気付いて、つ、と背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
デートするとしたら、今日が初デートだ。
失敗したくない。それなのに――
そもそも、出かける服がない。
「あ、あの、やっぱりデートは後日にしませんか……」
「なんで?」
類さんが掻き込んだ食事を咀嚼しながら首を傾げる。
僕は顔を両手で覆うと、ボソリと言った。
「…………そ、外に出かける服がないんです。来週なら準備できると思うので」
「なんだ、ちょうどいいじゃん」
ニャン太さんの言葉に、類さんが「おう」と頷く。
「ちょうどいいとは?」
類さんは食事を終えると、手を合わせてごちそうさまと言った。
それから僕を見て、口の端を持ち上げた。
「今日は買い物デートで決まりだな」