ファミリア・ラプソディア

紙と水(5)

* * *

 2時間経っても、コータさんは帰ってこなかった。
 さすがに申し訳なくて、僕はお客さんに謝り通しだった。お客さんは全然気にした風もなく、むしろ僕のことをボードゲームに誘ってくれたりした。

 そんな中、ひとりの女性がお店にやってきた。

 二度見するほどの美人だ。
 背は僕よりも大きくて、モデルさんか何かだろうと思う。
 爛々と輝く切れ長の目が、とても印象的な人だった。

 彼女は腰まである長い黒髪をたなびかせ、お店に颯爽と入ってきた。
 高級ブランドのバッグを左肩にかけ、両手には牛丼屋さんの袋をブラ下げていた。それも僕は二度見した。

「いらっしゃいませ……あ、あの、今、コータく……さんは、外に出てて。申し訳ないのですが、タバコの準備が……」

 ちょっと気圧されながら声をかければ、彼女はニコリと口の端を持ち上げる。

「アタシ、客じゃないよ。バイト側」

 彼女は少し低めのハスキーボイスで言った。
 僕は目を瞬いた。バイト側、ということは、自分は彼女の代理だったらしい。

「ありがとね。昼の仕事長引いちゃってさ。……それで、あのゴミどこ行ったの?」

「ゴミ?」

「コータのこと」

「それは、その……」

 ご、ゴミって……

「庇わなくていいわよ。いつものことなんだよね。ちょっと目離すとすぐ仕事ばっくれるの」

 彼女は怒っているようで、僕はホッとした。

 お客さんは「困ったやつだよね」と笑うだけだったから、不真面目すぎると思っていた自分が過剰なのかと不安になってきていたのだ。……うん。やっぱり仕事中にスロットに行ったらダメだろ。

 彼女は高そうな鞄をレジ横に投げ入れ、牛丼の袋をカウンターに置いた。

 結構食べる人なのだろうか。
 首を傾げた僕は、類さんのマンションに引っ越してきた時のことを思い出す。
 そういえばニャン太さんのお店には、万年腹を空かせているバイトがいると言っていたっけ。

「アタシ、カンナギ。あんたは?」

「洞谷伝です」

「よろしく。伝くん」

 カンナギさんが差し出した手を握り返す。
 その手は大きくてちょっとゴツゴツしていた。

「その牛丼、お夕飯ですか?」

「ううん。アタシのじゃなくてコータに差し入れ。アイツ、稼ぎのほとんど養育費に払ってるから、いつもお腹空かせてるのよ」

 養育費の話は本当だったらしい。

 そんなことを考えていると、突然彼女は僕に身体を寄せてきた。

「でも、いないならアタシらで食べちゃおっか。伝くん、お腹空いてない?」

「え、あ、あのっ」

 近い。距離が近い。
 思わぬ事に頬を染めれば、彼女はチロリと舌なめずりした。

「かーわいー。顔、真っ赤。もしかして、君……童貞?」

「な、なんで、そんなこと……」

「だって、おっぱい気になるみたいだから」

「へっ!?」

 思わぬ方向からの返しに、僕はギョッとする。
 彼女はニコニコ笑って豊満な谷間を見せつけるように屈み、こちらを覗き込んできた。

「そう照れなさんな。男はみんな大きなおっぱい好きだよねー」

「あ、あの……っ!?」

 照れていない。
 むしろ混乱している。いや、それすら通り越して恐怖だ。

 じりじりと退けば棚にぶつかった。
 フレーバーの缶がいくつか落ちて、床を転がる。
 助けを求めてお客さんを振り返れば、不幸なことに背の高い棚が死角を作っていた。

「触っていいわよ? 初めましてのサービス」

「そ、そんなサービスいりません!」

「遠慮せずに。ほらほら」

「や、やめてください。本当に。困ります……つ」

 手を握りしめてきた彼女を振り払うと、すかさず抱きつかれた。
 押し付けられた柔らかな感触に――僕は息を飲む。

 これ、僕の方がセクハラで訴えられるのでは……!?
 全身の毛穴が開いて、ブワッと冷や汗が噴き出した。

 その時だ。

「あ。姐さん姐さん。その人にちょっかいだすのはダメっす。ハーレムさんの新恋人っすから」

 コータくんさんが何食わぬ顔で戻ってきた。
 彼は抱えていた大きな茶色の紙袋をカウンターに置くと、出かけていた空白の時間なんてなかったみたいに替えの炭を焼き始める。

 カンナギさんが僕から離れた。
 その場にズルズルと座り込む。と、盛大な舌打ちが降った。

「……なーんだ。ノンケじゃないのか」

 僕はポカンとしながら顔を持ち上げる。

 長い髪をかき上げたカンナギさんと目が合えば、彼女はちょっと申し訳なさそうに微笑んで肩を竦めた。

「ごめんなさいね。あまりにも可愛くて」

「見た目に騙されると痛い目見ますよ。この人、ウツボカズラなんで」

 言葉が終わらないうちに、カンナギさんは拳でコータくんさんを殴った。

「いっでぇっ!? ホントのことでしょー!?」

「誤解しないで? 今のは、レジ打ち代理を残して仕事サボッてたことに対する制裁よ。そしてこれが――ウツボカズラ呼びしたことに対して」

 ガツンと2発目が炸裂する。ついで彼女はコータくんさんの耳を引っ張った。

「いぃっ!?」

「ったく、あんま舐めたことやってると、ピアス引きちぎるわよ」

「いっいだだだだ! ちょっ、それはっ……この間の大惨事忘れちゃったんすかっ!? また根子さんに怒られますよ!?」

「うるっさいわねぇ。アンタが流血ガマンしたらいいじゃない」

「そんなっ、むちゃくちゃっすよぉっ……!」

 激しいやり取りに圧倒されていると、涙目のコータくんさんが僕を見た。

「メガネくん! 何、ボーッと見てんすか! 少しは止めてください!」

「は、はい!」裏返った声で頷き、慌ててふたりの間に入る。

「カンナギさん! それくらいに……!」

「伝くんは許すの? こいつの所業」

「た、確かに、仕事中にスロット行くのはありえないなって思いましたけど……」

「ありえないって」

「ひぃいっ! ギブ! ギブギブギブ!」

「わぁあっ!?」

 本当に引きちぎりそうな勢いに、僕は必死になってふたりを引き離した。代理でバイトに入った日に流血沙汰なんてやめて欲しい。

「ゼェ、ゼェ、ゼェ……一言余計っすよ、メガネくん……」

 左耳を押さえながら、コータくんさんが呻く。

「いえ、本当にありえないとは思ってますので……」

 と、そこに新規の団体客が来た。

 カンナギさんは瞬時に営業スマイルを浮かべて、「こんばんはぁ♪」とお客さんたちに向き直る。

 僕はなんだか脱力しながらそれを眺め、やがてズレていたメガネを掛け直した。

「あの、そろそろ僕、お暇しますね……」

 ヨロヨロと帰り支度をすれば、「待って待って」とコータさんが声を上げた。

「はい? なんですか?」

「これ、ハーレムさんに渡しといてください」

 言って、彼はカウンターに置いた茶色の紙袋を差し出してくる。

 受け取った僕は小首を傾げた。
 中をのぞき込むと、一番上にはあんまり可愛くないカエルのぬいぐるみが入っている。
 しかし、下の方はゴツゴツしていて大小いくつかの箱が入っているみたいだ。
 重さはそこそこある。

「なんですか、これ?」

「それは秘密っす」

 コータくんさんは、真面目な様子で答えた。

「前々から、ハーレムさんに頼まれてたやつです。そう伝えれば、すぐわかると思います 」

「はあ……」

「あ。中身見たりしたらダメっすからね。ハーレムさんのこけしに関わるから」

「こけし?……沽券のことですか?」

「そうそうそれ」

 一体何だろう。
 ますます訝しげにする僕に、彼は固い表情のまま続けた。

「バレたら、あの人、めっちゃ落ち込むと思います。なんで取り扱い注意で」

「そんなにですか……。気を付けます」

 僕も表情を引き締めて頷く。

 知られたら類さんが落ち込むもの……さっぱり心当たりはないが、だからって詮索しようとは思わなかった。
 人には秘密のひとつやふたつあるものだし、類さんを傷付けたくはない。

 僕は茶色の紙袋を大切に両手で抱きしめ、お客さんたちに挨拶をしてから店を出た。

 今日は物凄く疲れた。
 疲れたけれど……なんだか楽しくもあった。

 色んな人がいるなぁ、と感心したし、自分の常識とか価値観がいかに偏ったものなのかを感じた。

 うまく言葉にできないが……『社会はごちゃっとしている』。そして、みんなそれなりに生きている。
 そのことに僕は不思議と安心を覚えたのだ。

□ ■ □

「アンタ、伝くんに何渡したの」

 ぐるりと客席を一周してタバコの炭を替えて戻ってきたコータに、カンナギが問いかける。

「んー」

 コータは冷蔵庫から炭酸ジュースを取り出し、カンナギが差し入れた牛丼を開けながら、口を開いた。

「ハーレムさん、この前、誕生日だったでしょ? だからカモにネギ背負わせてプレゼントしたんすよ」

 言って、彼はプラスチックケースを傾けると白米と牛肉を掻き込む。

「カモネギ? どういうこと?」

「フフフ」

 カンナギが形の良い眉を寄せるのに、頬張った牛丼を咀嚼しつつ、コータは意味深な笑みを浮かべる。

 そんな彼の横っ面に、すかさず拳がめり込んで口から米粒が散った。

「痛い!」

「キモイ顔すんな」

 ……伝は、自分がカモと呼ばれた理由など知るよしもない。

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