紙と水(1)
朝ごはんを食べ終わり、大学に出かける準備をしていると自室の扉が鳴った。
「デンデン、今日ってさバイトなかったよね?大学、何時までだっけ?」
申し訳なさそうに、ニャン太さんが顔を覗かせる。
「今日は2コマしかないんで、12時には終わりますよ。どうかしましたか?」
「あのさあのさ、急で本当に申し訳ないんだけどお店手伝って貰っていい!?」
両手を顔の前で合わせる彼に、僕は目を瞬かせた。
「今日、ふたりいるバイトくんのひとりが、遅れそうって連絡きて……でもボク、予定があって……姉ちゃんの引っ越しに車回さなきゃならないんだよ~~っ」
「お姉さんってピアノの先生の?」
「ううん、3番目の姉ちゃん」
彼は前に5人兄弟と言っていたけれど、随分と女性の多い兄弟なのかもしれない。彼の性格を思うとそんな気がしてくる。
「でも、お店って水タバコ屋さんの……ですよね。僕、何の知識もないんですけど、お手伝いできるものなんでしょうか?」
「全然大丈夫!レジだけだから!」
「それなら大丈夫ですよ……たぶん、ですけど」
レジ打ちはやったことがないから断言はできないが……なんとかなるだろう。
「ホント!?ありがと。めっっっっちゃ感謝!!」
ニャン太さんは神社に参詣する時のように手を打ち鳴らした。それからパッと輝かせた顔を持ち上げた。
「じゃあ、12時くらいに学校まで迎えに行くね。途中でお昼食べて、お店連れてっちゃうけどいい?」
「わかりました」
指きりをすると、ニャン太さんは部屋を出ていった。
僕は図書館に持ち込む予定だったノートパソコンをデスクに戻し、いつもより軽いバッグを手に大学へ出かけた。
* * *
2限を終えて校門前で待っていた僕は、目の前で止まったニャン太さんのワンボックスに乗り込んだ。
迎えの車には類さんも乗っていた。
ここ数日、締切で忙しくしている彼は、仕事の気晴らしに逃げてきたと笑った。
と言っても、一服したらすぐマンションに戻るつもりらしく、一緒にいられるのかな?なんて期待していた僕はちょっと寂しさを覚える。
やがて、居酒屋や夜のお店が入ったビルが建ち並ぶ大通りに辿り付くと、ニャン太さんは車を停めて僕と類さんを下ろした。
「じゃあ、僕は駐車場に車置いてくるから」
「店、こっち」
類さんの後をついていけば、シャッターの閉まったテナント前に辿り着いた。
シャッターにはスプレー缶で落書きがされていて、その前に背を丸くしてしゃがみ込む男性の姿があった。ヨレヨレの白ティーシャツにジーンズ姿の彼は、手に灰皿を持ちぼんやりと紙タバコをふかしながら、シャッターを見上げている。
その耳はピアスだらけで、僕はちょっと驚いた。
「よお、バイト1号」と、類さんが声をかける。
バイト1号と呼ばれたピアスだらけの男性は、気怠げにこちらを振り向いた。
鼻と唇、それからこめかみにもピアスが2匹噛みついている。
年の頃は、僕と同じか少し下くらいだろうか。
「……あ。ハーレムさん。こんにちは」
彼は眠そうな目で類さんを見上げると、あくびするみたいに言った。
「何してんの、お前。もうニャン太くるぞ」
「マジ? もうそんな時間?」と言いながら、彼は再びシャッターにぼんやりと目を戻す。
「このクソ汚ぇシャッターの落書きどーしようかなって考えてたんすけど、答えが出なくて」
「どうしようって?」
「んー、消そうか消さまいか。面倒でしょ」
「消した方がいいよ」
彼の隣に並んで類さんが間髪入れずに言った。
「えー。どうせ消してもまた描かれるじゃん」
「それでも消した方がいい」
「なんで?」
バイト1号くんは、ふぅ、っと煙を吐き出して問う。
それに類さんは肩をすくめた。
「消さないとますます汚くされるからだよ。キレイならやらなかったようなヤツもハードルが下がる。もう汚いし、って」
「はぁ、なるほど。クソ面倒っすね」
バイト1号くんが立ち上がる。
それから僕に気付いてチラリと視線を投げてから、類さんに訊いた。
「ってーか、そこに突っ立ってるメガネくんはハーレムさんの連れ?」
「そう。新しい恋人」
「伝」と、類さんが呼ぶ。僕は彼の後ろに走り寄った。