バカと恋わずらい(9)
僕は一瞬緩んだ隙をついて将臣の手を振り払った。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
心臓がバクバク言っている。彼の手を掴み、呼吸を整えるようにする。
類さんはチラリと将臣を見やると言った。
「伝は俺のだから。ちょっかいかけるなら他を当たれよ」
「……何が『俺の』だよ。アンタ、そっちのとも付き合ってんだろ? それでよく恋人ヅラできるな」
「ヅラじゃねぇよ、恋人だよ」
類さんは世間話でもするように応える。
「そういうこと言ってんじゃねぇ!」
ニャン太さんが庇うように前に出ようとして、それを類さんが止めた。
「も、もう行きましょう……っ」
やっと落ち着きを取り戻してきた僕は類さんの袖を引っ張った。
助けて貰ったのはありがたいが、ふたりを巻き込みたいわけではない。
事情は後で話すとして、ここは将臣から離れないと。イサミさんに迷惑をかけることになるかもしれない……
でも、類さんは動かなかった。
「あの、類さん……」
「ソイツは……伝は、ドが付く真面目なんだ。アンタなら遊び相手は選び放題だろ。だったら伝を振り回さないでくれ」
「遊びじゃない。本気で愛してるよ」
「二股かけといて何が本気だよ。そんな中途半端でソイツのこと幸せにできると思ってんのか?」
「……悪いけど」
類さんは一度言葉を切ってから、続けた。
「俺は伝のこと、幸せにしたいとはこれっぽっちも思ってない」
「なっ……」
「幸せは他人があてがうもんじゃねぇだろ。もちろん、いろいろ与えたいとは思ってるけど」
眦を吊り上げた将臣が、クッと低く笑う。
「……物は言い様だな」
それから人差し指で、僕と、次いでニャン太さんを指さした。
「伝のことも、そこの金髪のこともちっとも大切に思ってないくせに。アンタは自分がカワイイだけだ。じゃなきゃ二股なんてかけられるかよ」
「……そうだな。俺は俺がカワイイよ」
「開き直るんじゃねぇよ、クソ野郎が」
「将臣」
「……なんだよ?」
「……これ以上、類さんのことを侮辱するのは僕が許さない」
真っ直ぐ睨めつける。
彼は小さく目を開いてから、表情を歪ませた。
「伝……」
ダンッと壁が鳴る。将臣が背後の壁を殴ったのだ。
「なんでだよ! オレはっ! オレは……っ、お前のためにいろいろやってやったろ……っ!? 人付き合い苦手なお前が大学4年間、ボッチにならなかったのは誰のお陰だ!?なぁ、言ってみろよ!」
「……将臣のお陰だよ。4年間、楽しかった。本当に感謝してる」
寮生活時代、友人たちと夜更かしして飲んだりゲームをしたりした。
実家から送られてきたものをみんなで分けたり、ファミレスで長々と他愛もない話をした。麻雀を教えてくれたのも将臣だった。
僕はみんなとうまく馴染めなかった。でも、楽しくなかったとは嘘でも言えない。
僕は本当に彼に感謝しているし、だから彼のことを好きになった。……キモイと言うのを聞いて傷ついた。
「それなのに、ソイツを選ぶのか? どこがいいんだよ。そんなヤツの……!」
「……類さんといると、僕は強くなれる気がするんだよ」
僕は迷いながらも言葉を紡ぐ。
「強く……?」
「自分のことダメじゃないって思えるっていうか……一緒にいて心地良くて……」
誰の許可もいらない。そんなことを、彼と一緒にいると漠然と感じる。
まとわりつくような靄が晴れて、気が付けば息苦しさを忘れている。
僕は視線を靴先に落とした。
「他に恋人がいるとか、関係ないんだよ。類さんが僕のことを好きだから、好きになったわけじゃない」
「マジで、意味不明だわ……」
しばらくの沈黙の後、将臣は吐き捨てた。
「シラけた。帰るわ」
ついで苛立たしげに髪をかくと、肺の中が空っぽになるような溜息をついた。
「……クソ。変な意地とか張んねぇで目離さなきゃよかった」
舌打ちをひとつ落として、類さんの横を通りトイレを出て行く。
何も言えないでいると、くしゃりと類さんに髪を撫でられた。
「……ピザきてたぞ。早く席戻ろう」
「……すみませんでした」
頭を下げれば、類さんはキョトンとした。
「なにが?」
「その……巻き込んでしまって」
「あんたが謝ることじゃねぇだろ」
「そうそう。むしろ、また何か突っかかられたら言うんだよ? ボクが話つけるからね」
ニャン太さんが笑顔で拳を握り締める。
その手を類さんが下げた。
「ニャン太はやめとけ。マジで。……な?」
「え? なんで?」
いつものやり取りに緊張の糸が切れて、僕は思わず噴き出す。
笑いながら扉を踏み越えようとすれば、ふと、類さんの腕が行く手を遮った。
「……それより、伝。さっき、アイツにキスされた?」
「されてません。死守しました」
首を左右に振る。ギリギリだったけど未遂だ。
応えると、類さんはホッとしたえように顔をほころばせた。
「そうか。……良かった」
次いで、彼はすたすたとホールに戻っていった。
キスされると思ったのに……
なんて物足りなさを覚えた僕は、手の甲を口元に押しつける。
――ここは外だぞ。何考えてるんだ。
「あっ、ソウちゃん来てる! おつおつ~!」
類さんについてホールに出れば、ニャン太さんが勢い良く手を上げた。
見れば、カウンター近くのテーブル席にソウさんが座っていて、すぐ側にイサミさんが立っていた。どうやら、さっきまでいた席の飲み物やフードをその席に運んでくれているらしい。
「ただいま」と、ソウさん。
ニャン太さんはテーブルの上のピザを見下ろして声を上げた。
「――って、マルゲリータがクアトロフォルマージュになってる!」
「悪い。食べた」
「気にしないでください。クアトロも好きです」
そう言って、僕はソウさんの対面に腰掛ける。
類さんがソウさんの隣に、ニャン太さんが僕の隣に座った。
「ハチミツたくさんかけちゃおー」
それから彼は、イサミさんが手にするお盆からハチミツの瓶を取り上げた。
「3人でどこに行ってた?」
「トイレだよ~」
「……根子さん。さすがにお店の中では……」
「変な想像しないでください!!」
イサミさんの困ったような言葉を僕は慌てて遮る。
その時、店の扉が開く音がして僕は振り返った。
ちょうど将臣が店を出ていくところだった。
ふいに、数年前のことが脳裏を過る。
……このお店に連れてきてくれたのも彼だったっけ。
「伝。皿よこせ」
「あ、はい。いただきます」
僕は類さんに取り皿を差し出した。
「こっちハチミツたくさんかかってるよ~」
それに、ニャン太さんがピザを乗せてくれる。
店内は相変わらず賑わっている。去年も、一昨年もこんな感じだった。
気怠げなBGM、それを打ち消すようなはしゃぐ大学生とおぼしき若い人たちの声。
ピザの上に溜まるハチミツが、店の薄暗い照明を照り返している。
僕は入口の扉を意識の外に追いやると、その青ざめたピザを口に含んだ。
step.17『バカと恋わずらい』 おしまい。