ファミリア・ラプソディア

正解と不正解(3)

 類は屋上の背の高いフェンスを両手で掴むと、青い空を見上げた。
 俺もその隣に並んで同じようにする。
 どちらも何も言わず、しばらく沈黙の時間が続いた。

 やがて、1限のチャイムが鳴り終わった頃、類が口を開いた。

「……金曜さ。お前……うちに来てた?」

 俺は逡巡した後、小さく頷く。

「……修学旅行のプリント、渡してくれって頼まれて。ポストに入れ忘れた。ごめん」

「いいよ、それは。休んでた俺が悪いんだし。それに旅行代理店に直接相談したらなんとかなりそうだってさ」

「そうか」

「それよりさ、その……」

 類は言い淀むように唇を開閉させる。
 それから項垂れて、フェンスに額を押し付けるようにした。

 たぶん俺は、知ってはいけなかったことを知ってしまったのだろう。

「……昨日のこと、誰にも言わないでくれねぇかな」

 彼はフェンスから手を離すと、こちらを向いた。

「お前は……大丈夫なのか? あれは……お前の望んでいること、なのか?」

「そうだよ」

 即座に首肯した彼の表情は、いつもと違うように見えた。どこか疲れたような、諦めたような……

 こういう時、普通の人は何て言葉を続けるのだろう。
 類は本当に大丈夫なんだろうか。嘘をついているんじゃないのか。

 わからない。
 わからないことが、とても苦しい。類の心が読めたら良かったのに。そうしたら彼が望む全てを叶えるのに。

「……誰にも言わない」

 悩んだ末に、俺はそう言った。

「ありがとな、蒼悟」

 類はホッと吐息をこぼすと、いつもの笑みを浮かべた。

「教室、戻ろうか」

 それから彼は軽い足取りで踵を返した。
 扉に向かう背を俺はぼんやり見つめる。

 類が望んでいるのは、これで話をおしまいにすることだろう。
 外野の俺が言うべきことは何もない。
 だが……おしまいに、していいのだろうか。

「何してんだよ、蒼悟。行くぞ」

 類が振り返る。

 言い表せない胸の痛みに顔が歪む。
 明確な答えが欲しい。いや、正解が欲しい。間違えたくない。

「……類」

「ん?」

 今、彼にかけるべき言葉を必死で思案した。

「俺は、お前の役に立ちたい。お前が俺の世界を変えてくれたみたいに。俺はどうしたらいい? お前は俺に何をして欲しい?」

「ははっ、なんだよそれ。何もしなくていいっての」

「それだと俺が苦しいんだ」

 俺は不思議そうに目を瞬かせる類に、繰り返す。

「頼む。教えてくれ」

 と、彼は俺を見つめてから視線を横に逸らした。
 何度か唇を開閉させる。
 続いて、掠れる声が耳に届いた。

「なら……さ」

 彼はゆっくり俺の前に戻ると、肩口に頭を押し付けてきた。

「……受け入れて、欲しいかも」

 躊躇いがちに呟かれた言葉に俺は首を傾げる。

「受け入れる?」

「そ。全部。俺のキモイとこもキタナイとこもイタイとこも、全部」

 そう言うやいなや、彼は勢いよく顔を上げた。

「――なんて、冗談だよ」

 類は笑って俺の肩を少し強めに叩いてきた。
 俺は迷わず頷いた。

「受け入れる」

 類のことをキモいとか汚いとか思ったことはないし、痛いかどうかは俺にはわからないが。

「お前がどんな人間でも、俺はお前を受け入れる」

 類がいなければ、俺はこの空の青も認識できなかったと思う。

 真っ直ぐ見つめる俺に、類は驚いたように目を見開いてから、なんだか泣きそうになって笑った。

 俺はそんな類を咄嗟に抱きしめた。
 そうしないと、今にも目の前で彼がバラバラに崩れてしまいそうだと思ったから。

「蒼悟……?」

 力を込める。
 類の身体は思っていたよりも細かった。

 シャツ越しにぬくもりが伝わってきて、眩暈がした。
 呼吸困難になるくらい胸が締め付けられた。

 ……どれくらいそうしていただろう。
 爽やかな風が一陣吹いた。と、腕の中で類が身動ぎした。

「……そろそろ、はずくなってきたんだけども」

「わ、悪い」

 慌てて腕を離せば、今まで近付いたことのないほどの距離に類がいた。
 顔を背ける彼の目の下がほんのりと赤らんでいる。

 目を奪われるというのは、こういうことを言うのだろう。
 彼は綺麗だった。
 俺はいかに自分が他人の顔を見ずに生活していたかを思い知った。    類が俺の視線に気付いた。

 長い睫が揺れる。
 鼻先を吐息が掠め――知れず、唇が重なった。

 俺はゆっくりと瞼を閉じた。

* * *

 付き合うだとか、好きだとか、そういう話は一切出なかった。
 俺は類を受け入れて、類は俺を拒絶しなかった。たぶん、あの頃の彼は秘密を知った俺を警戒していたのだろう。
 それでも構わなかった。
 俺の世界は、類とその他のふたつに別れた。
 それくらい俺は彼に溺れていった。

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