Break Free
(今日こそは大丈夫だと思ったんだが)
ある夏の日の昼下がり。
頼久類(らいく るい)は力なく吊革にぶら下がっていた。
月一度の通院日だが、いつも病院まで同行してくれる家族に予定が入ってしまった。
最近、随分と体調が良かったから『これはいい機会』と思い、心配する家族を説得して一人で電車に乗った。
それが、間違いだった。
電車の振動がダイレクトに臓腑を揺らしてくる。
談笑する女性たちの声が頭の中をぐるぐると旋回する。
携帯電話の着信音、咳払い、イヤホンから漏れる音……全てがない混ぜになって、思考を粉々に砕いて蹴散らしていく。
(クソ……なんで快速に乗っちまったかな)
各駅ならば、次の駅まで数分だったのに。
意気揚々と快速に滑り込んだ過去の自分を忌々しく思う。
(せめて座ることができれば、まだマシなんだが……)
呼吸が自然と荒くなって、こめかみから頬にかけて冷たい汗が流れた。
エアコンの冷風が、その汗で湿った皮膚から急激に熱を奪っていく。
気を抜いたらその場に崩れ落ちてしまいそうだ。
この閉鎖空間から出て、新鮮な空気を吸えばきっと落ち着く。
ベンチに座って、さっき連絡した家族が迎えにくるのを待とう。
そう、自分に言い聞かせた。
ああ、でも。
寒い。
うるさい。
気持ちが悪い。
ぐるぐる。
ぐるぐるぐるぐる。
視界が揺れた。世界の色が褪せていく。
ダメだ。限界だ。もう、立っていられない。
――その時だった。
「だ、大丈夫ですか……?」
おずおずとした声と共に、今にも倒れそうな身体を横から支えられた。
「凄く顔色悪いですよ。……次で降りましょう」
焦ったような小声が耳に届く。
(そもそも、そのつもりだったんだ)
声が出なくて、類は何度も小さく頷いた。
「僕に寄りかかっててください。支えますから」
体を寄せると、男のシャツの柄がやけに鮮やかに目に飛び込んできた。
薄い水色に、灰色と、紺色のストライプ……
鼻腔をくすぐる、爽やかな汗の香り。
襟元から覗く肌は、日に焼けておらず鎖骨が浮いている。
ふと、雑多な音が遠ざかった。
類は少しだけ顔を持ち上げ、目深くかぶった帽子の奥から男の顔を見た。
年は二十代前半くらいだろうか。
口角は下がり気味で、鼻は高く、生真面目そうな男だ。
細く、丸みを帯びた眼鏡をかけている。
色素の薄い茶色の瞳は怜悧さを湛え、アーモンド型の目はどこか幼くも見えた。
ジリリリリリリリリ。
突然、 大音量のセミの声が弾けて、類は身体をギクリと震わせる。
扉が開いていた。電車が次の駅に止まったのだ。
「着きましたよ。降りますよ」
セミの声と共に、湿った風が肺に吹き込んできた。
それは予想外に不愉快な味だった。清涼とは程遠い、ムッとした夏の風。
眼鏡の男に気を取られていたのは一瞬で、途端に我慢していた吐き気がぶり返してきた。
「うっ……」
男と一緒にホームに降り立ってすぐ、類は吐いた。
身体を丸めて、何度も嘔吐いた。
(ああ、やっちまった)
助けて貰っておきながら、男のシャツやズボンを汚してしまったことに酷く罪悪感が募る。
何事かと駅員が飛んできた。
それに眼鏡の男は、冷静に事情を話してくれた。
大事になる前に、類がか細い声で家族が迎えに来る旨を伝えれば、男は「それまでベンチで待ってましょうか」と言った。
「わ、りぃ……服、汚しちまった……」
ティッシュだとか色々持ってきてくれた駅員が去ってから、類は眼鏡の男に謝罪した。
「気にしないでください。安物ですから」
男はシャツを拭いながら言った。
酷い迷惑をかけたのに、困ったようにも、怒っているようにも見えない。
「それより何か飲んだりしますか?」
「いや、平気……」
「必要なものがあったら、言ってくださいね」
「うん……」
彼の向こうに、階段を駆け下りてくる金髪が見えたのはそんな時だ。
「類ちゃーーん! 迎えに来たよーー!」
家族のニャン太――寝子寧太(ねこ・ねいた)だ。
彼は目に五月蠅い柄のシャツを翻し、猛ダッシュでこっちに向かってきた。
「あの手を振ってる方、ご家族ですか?」
眼鏡の男が尋ねる。
「そう……」
「良かったですね。すぐ来てくれて」
「すみません、うちのがっ……!」
息せき切ってやって来たニャン太は、膝に手をつき呼吸を整えると口を開いた。
「ありがとうございます、類のこと見ててくれたんですよね。あっ、駅員さんに聞いたんです、付き添ってくれてる人がいるって……」
手の甲で汗を拭いつつそこまで一息で言ってから、ニャン太が眼鏡の男のシャツに気付いた。
「――って、うわっ、類、吐いちゃったんだ!? す、すみません、服、弁償しますっ……!」
「えっ!? あっ、いえ、大丈夫です!」
「いやいや全然大丈夫じゃないでしょ! シャツ、汚れちゃってるじゃん! せめてクリーニング代……っ!」
「これ下北で500円で買った中古のシャツで……と、とにかく、気にするようなことじゃないですから!」
眼鏡の男は食い下がろうとするニャン太からじりじりと距離を置くと、「それじゃあ、お大事に!」とカバンを抱いてベンチから立ち上がった。かと思うと、脱兎のごとく走り出す。
「あっ、ちょっと……!」
ニャン太は追いかけようとして止めた。
続いて、彼は額に張り付いた髪を掻き上げて嘆息してから類に向き直った。
「……類ちゃん、氷持ってきたよ。立てるようになるまで、頭冷やしてなよ」
ショルダーバッグから取り出した、タオルで巻いた保冷剤を類の額に押し付ける。
「……大丈夫だと、思ったんだ」
それを受け取りながら、類は呟いた。
「今度はもう少し涼しい日にトライしようね」
「そうする……」
セミが鳴いている。
類はベンチに背を預けると、瞼を閉じて天を仰いだ。
膨張したかのような頭に、ドクドクと血流の音が響いている。そこに氷の冷たさはとても気持ち良い。その爽やかな感触は、さっきの眼鏡の男を思わせる。
ややあってから、類は掠れた声を漏らした。
「ニャン太……電話……」
「電話? 誰の?」
「さっきの眼鏡……せめて……名前……」
「もう無理だよ。とっくに行っちゃったし」
「だよなー……」
肺が空っぽになる溜息をひとつ。
それから類は身体を起こした。すかさず、ニャン太がずり落ちた保冷剤をキャッチする。
「……っと。そろそろ立てそう?」
「……頑張れば」
「なら、頑張って移動しよう。ここ暑いし。
車に着替え持ってきてるから、そのまま病院行くよ」
「わかった。ありがとな……」
フラつきながら、類は立ち上がった。
目線を彷徨わせ、ストライプのシャツを探したけれど、ニャン太の言った通り跡も形もない。
彼が眼鏡の男に再会したのは、それから約半年後のことだ。
行きつけのバーで飲んでいる時、ふと隣の席を見て……彼を見つけた。